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四月一日の魔法少女

「私、実は魔法少女なんだ」
 A棟の205教室。ここではTOEICと呼ばれる英語の一斉試験が行われようとしていた。四月特有のだるさを訴える声や久々の仲間との再会を喜ぶ甲高い声で教室は埋め尽くされている。
 僕のように友達もいなく、一週間近く人に会わなくてもなんの弊害もないようないわゆる「ぼっち」と呼ばれる人種にとっては退屈でしかない時間だった。
 そんな僕に一人の女子が話しかけて来た。彼女は僕のクラスメイト、いや新学期で次のクラスが発表されていない現段階では「元クラスメイト」という間柄か。
 銀縁の眼鏡に清潔そうな黒いロングヘアー。グレーのプリーツスカートに白いタートルネックのセーターという格好の彼女からは同い年とは思えないほど大人の余裕みたいなものが感じられた。
 そんな彼女がいきなり「魔法少女」という単語を口に出したのだ。一瞬にして退屈がどこかへ行ってしまった。えっと魔法少女ってホウキに乗って空飛んだり、魔法で変身したり、悪い敵を倒したりとかするの?
「アニメの見過ぎ。実際にそんなことするわけないでしょ?」
 えーと魔法の国出身で魔法学校で魔法を学んだり。
「群馬県出身の公立高校卒業だよ?」
 邪悪な魔物をやっつけるとか。
「この二一世紀の世の中そんなものいないよ」
 ええと、それでも君は――。
「うん、魔法少女なんだ」
 彼女は僕と話しながらも、もじもじと手遊びに興じていた。もう四月だと言うのに彼女は白いミトンの手袋をしている。
 雪で作ったうさぎを連想させるふかふかの生地は彼女の指をまとめて優しく包んでいるように見えた。
「魔法少女なのはいいけどさ。なんで急にそんなこと言い出したの?」
 僕は何気なく聞いてみる。
「えっと……そういえばなんで未だに母親はゲーム全般のことを『ファミコン』もしくは『ピコピコ』と呼ぶんだろうね」
 僕の問いとは全く関係ないことを言い出す。
 彼女がこんなことを言い出すときは明らかにとぼけている時だ。僕と目をあわせようとしないし、目が泳いでいるようにも見える。
 なんでいきなりそんなことを言い出したか、それが僕にはなんとなくわかっていた。
 今日の日付は四月一日、そうエイプリルフールってやつなのだ。 彼女は僕に会って開口一番嘘をついたらしい。それにしたってもうちょっとまともな嘘をついたらどうなのだろうか。いくら僕が騙されやすいとはいえ、いくらなんでもこれは人を馬鹿にしすぎている。
 だけど彼女のこの行為が僕にとってはとても嬉しく思えた。
 今まで僕はエイプリルフールに嘘をつかれるといった経験が皆無だったのだ。だからものすごく新鮮に思えた。
 小学校から高校までの四月一日はそのだいたいが春休み中であったため、友達に嘘を吐かれるということはなかった。
 わざわざ休みの日に僕に嘘を吐きにくる友達はいない。さらに言うといままで友達と言える存在はいなかった。
  よく小学校の時の担任が「同じ教室で学ぶこのクラスはみんな友達だ」と吐き気を覚えるようなことを馬鹿の一つ覚えみたいに言っていたが、僕の教科書をビリ ビリに破いたあげくゴミ箱に入れたり、女子トイレの便座に僕の体育着を押し込んだりするようなクラスメイト達を「友達」と呼ぶことには抵抗があった。
 それから先も僕は生まれながらの内気な性格と変に天の邪鬼な性格が相まって中学、高校と友達のいない学校生活を送っていた。そんな僕にとって「エイプリルフールに嘘を吐かれる」という何気ない出来事に遭遇できたことが嬉しくもあり、それと同時に照れくさくもあった。
 彼女が頬を緩めて僕の隣に座ってくる。
 試験が始まったら席は一つずつ空けなきゃいけないんだから別のところに座ったら? という僕の苦言をものともせず、尻尾をぶんぶん振った子犬のように僕にすり寄ってくる。
 僕は彼女がにやけた時に右頬に現れる笑窪が大好きだ。見た瞬間に顔が熱くなるくらい好きだ。顔が火照って仕方がなかった。
 現に今も目の下あたりがひりひりしている。そして喉がからからに乾いてしまっていた。
 僕はリュックに入れていたミネラルウォーターを取り出してほんの少しの量を口の中に含ませる。本当にこんな状態でもテストを受けなくてはならないのだから面倒である。本当だったらアパートに帰って布団にダイブしているところだ。
「なんでそういうこと言うか……それは私にもわからないんだけど、そろそろ君に私の正体を明かしてもいいかな……って、そんな夢を見た」
「よくわからないけど複雑な夢をみたんだね」
「そうなんだ。だから私は君に魔法少女って素顔を見せてしまったのを今は軽く後悔してる。本当だったらTOEICなんてひたすらマークシートの『1』を塗りつぶすだけの試験を受けている場合じゃないんだけど」
 これ、そういう試験じゃないから。あと確か選択肢は『1、2、3、4』から選ぶんじゃなくって『A、B、C、D』から選ぶんだったような。
「本当にやる気を無くしてしまうよ。こんな試験じゃ……。『ゲーム王国』での江戸家小猫の司会ぶりくらいのやる気しかないよ」
 その例えは全くよくわからないけどとにかくやる気がないことだけはよくわかった。
  試験時間が近づくにつれて、教室の席がどんどん埋まっていく。 このTOEIC試験は結果によってその年のクラスが決まってしまうという意外と重要な試験 なので、普段はあまり学校で見ない顔も教室にやってくる。教室内の試験に臨む姿勢はさまざまで、より上級のクラス入りを目指すガリ勉タイプは早くから教室 入りするなり参考書とにらめっこしているし、とりあえず出席点だけいただいておこうというタイプのリア充グループは今日の夜のコンパの話に夢中である。
  一方僕はというと上のクラスに行けば行くほど大人しい文化系のクラスメイトに囲まれるということを経験上知っていたので、そこそこ勉強はしてきていた。だ けど教室でガリ勉アピールが恥ずかしいので静かに勉強内容を思い出しつつ、静かに試験に対して闘志を燃やすという、それなりにめんどくさい過ごし方を実行 していた。
 そして僕の隣に座っている彼女はバッグからチョコレート菓子を取り出し、それを美味しそうに貪っていた。彼女が食べているチョコレー ト菓子はナッツがぎっしり詰まったヌガーに激甘のチョコレートがコーティングされているやつで遭難してもこれを食べてるだけで生き延びていけそうな栄養価 満点の類のものである。
「魔法少女でもお腹が空くの?」 
 暇を持て余しているだけの僕の質問に彼女は首を縦に振って「魔法少女だって人間だもの」とだけ答えた。
 彼女の歯にはお歯黒のようにチョコレートがついている。もしも今彼女にキスをしたら間違いなくチョコレートの味がするんだろうな、なんてことを思う。僕はしょせんそんなことしか考えてない童貞丸だしの男子学生なのである。
 試験開始時間が近づくと彼女は僕の二つ前の席へと移動していった。僕は試験開始を静かに待ちつつも、この高揚した気持ちを落ち着かせるのに必死だった。

     ◇  

 彼女と出会ったのは「フレッシュマンプログラム」という新入生を対象にしたゼミの授業でのことだった。
 どうやら僕のクラスは社交的な人間の集まりであったらしく、僕が窓から見える学生を人間観察している間に既にもうゼミが一つの仲良しグループと化していた。僕と一人の女性を除いて――、それが彼女だった。
 仲良しグループは授業が始まるや否や教室の前方の席を陣取り、担当の教授と楽しそうに交流を始めていた。
  たいがい孤独な学生というものは教授と仲が良い物である。というのは、教授という生き物は群れからはぐれているひとりぼっち学生を哀れんでくれるタイプの 生き物であるため、大概の教授はひとりぼっちの学生の話相手になってくれるものなのだ。だがどうやらこの教授はそういうタイプの生き物ではないらしい。
 だから群れからあぶれた僕たちがお互い近くの席に座り、二人とも脅されているかのように静かに授業を受けた。
  ゼミ形式の授業にもかかわらず僕らはお互い一言も発しなかった。おかげで僕のフレッシュマンプログラムの評価は最低の「C」であった。たぶん彼女も同じよ うな評価だったのだろう。ゼミ形式のディスカッションが主となる授業でだんまりを決め込んでたので、単位はもらえないものだと思っていたのだが、どうやら 全て出席していた僕らを落第させることはできないらしい。最低な評価ではあるが、一応単位として認定してくれることになった。
 彼女とはなぜか授業がかぶることが多かった。
 同じ学科であれば、同じ授業に出席してそうなものだが、一般教養が主となる一年生においては、あらかじめ打ち合わせをしない限り授業がかぶるということはすごく希である。
 そして僕と彼女はいつも似たような席に座っていた。比較的周りが騒がしくない教室前方、かといって教授に指名されにくい端側、いつも前方の左端が僕たちの指定席だった。
 いつも彼女は僕の前の席に座った。
 九十分も続く長い講義の中、ふとした瞬間に彼女を盗み見することが習慣となっていった。彼女のシンプルなデザインのペンケースや飲みかけのペットボトルの紅茶なんかを見ながら退屈な授業が終わるのを待っていた。
 そんなことを繰り返しているうちにあっという間に九十分なんて終わってしまうもので、授業にでているにもかかわらず覚えていることといえば彼女の授業を受けている時のしぐさだったりだとか彼女の白いうなじだったりで肝心の内容なんかさっぱりわけがわからなかった。
 こんな授業態度だったので彼女と一緒に受けている授業の大半は理解できないまま月日だけが経っていった。
 同じ教室にいる人間から見たら毎回休まずに教室前方で授業を受けている真面目な学生にしか見えないだろう。だけど僕は授業の理解度でいったら授業を登録だけして一回も授業にこないタイプの学生と何一つかわらないのだ。

 教室が生乾きの衣類のすえた臭いが充満する六月になった。
 僕がいつものように教室に入ると明らかに生徒の数がまばらだということに気づく。僕は即座にこの授業が休講であることを理解した。この教室に残っているのは休講の有り余った時間を友人と話すことで消費しようと言う本気で暇な部類の学生だけであろう。
 僕はそこまで本気で暇なわけではないので――というより話し相手の友人なんて存在がいないので、もうアパートに帰ってしまおうと思っていた。
 しかし僕の足はアパートではなくいつものように教室の前方へ向いていた。彼女を見つけたのだ。
 僕がいつも座っている席の二つ前、普段と何も変わらない様子で彼女は座っていた。
「休講みたいですよ」
 気がついたら僕は彼女に声をかけていた。この行為に一番驚いているのは僕自身だった。
 今まで僕は異性に声をかけるどころか他人に声をかけるということなんてしたことがない。そんな僕が今まで会話をしたことない相手に話しかけていた。
 緊張していた。いや、クラスメイト同士でお互い知らない間柄ではないのだから緊張なんかしなくていいはずなのだ。
 しかし普段人と話すということをしない僕にとっては全く知らない場所に一人ぼっちにされたような心細さを感じたのだ。
 彼女のレンズは僕のほうを向いている。
 なんだか急に恥ずかしくなってしまった僕は必死になって目をそらす。その瞬間に本当に休講かどうか確認してから話しかければよかった、という後悔が押し寄せてくる。けど大概そういう後悔してからではもう遅いものなのだ。
「知ってる」
 彼女はそう僕につぶやくとバッグから棒状の羊羹を取り出すと美味しそうにかぶりついた。
「じゃあどうして」
 僕は続けて聞いてみる。身体が震えているのが自分自身でもよくわかった。相手にとっては相当変な男に見えているだろう。だけど彼女が僕を見る目に偏見や不信感というものはないように思えた。 優しい目だった。
 この子だったらすべてを許せてしまうようなそんな汚れを知らない目。僕は恥ずかしさを忘れて彼女の目を見つめ続けていた。彼女は僕の目をしっかりと見据えながらゆっくりと口を開いた。
「私はね。君に会えるかな……と思って」
 彼女の言ったことを完全に理解するまでずいぶんと時間がかかった。
  まずは自分の聴力を疑った。確か学校に無理矢理受けさせられている健康診断では聴力は問題ないはずだったのだが。もしや幻聴が聞こえる、というレベルはも はや耳鼻科の管轄を越えてもっと大変な病気なのではないか。そうなったら大学なんて通っている場合ではない。そうなったら彼女に会えない。もう彼女と会う ことはこれで最後なんだ……そんなことが頭の中をぐるぐるぐるぐる回っている。
「……聞いてる?」
 彼女の声で我に返る。なんだかとんでもない方向へ妄想を飛ばしていたようだった。いったいどんな顔を僕はしていたのだろう。『ザ・変態』ちっくな顔をしていたのだろうか。とりあえず僕は、聞いてる、と短い返事をする。
「君は?」
「ん?」 
「君こそなんでここにいるの?」
 いや、別に特に理由なんてないけど。
「むー。ちゃんと答えてよ。私は君の質問にちゃんと答えたんだから」
 僕も……君に会えると思って。
 何言ってるんだ僕は。ふざけてるのか僕は。馬鹿にしてるのか僕は。正気なのか僕は。
 なーんてね。冗談だよ。
 そう言えばこの場は乗り切れるのだろうか。だけどそんな一言がでてこない。何よりももう頭がくらくらで倒れてしまいそうだった。尋常じゃないほどの汗が額から溢れてくるのを感じた。
 お互い何も話さなかった。そしていつの間にか教室に残っていたのは僕ら二人になった。
 外でフリスビーの授業をしている学生達が目に入った。彼らは男とか女とかそういうのをまるで意識していないかのように楽しそうに授業の時間を過ごしているようだった。一方僕らは、何もしゃべれずにお互い見つめあっているだけだ。教室には誰も入ってくる気配がなかった。
「たかみね」
 彼女はひそっと何かをつぶやいた。
「たかみね――、高峰千里」
 それは彼女の名前だった。
 僕もつられるように自分の名前を告げる。今思うと名前はお互い知っているはずなのだ。なにせゼミ形式の授業を共に受けていたのだから。
 だけどその授業で僕らは一言も発していない。もちろん自分の名前も発していない。だからお互いが自分の名前を言い合うこの何気ない行為がとても新鮮に思えた。
 それが彼女と話した最初の日だった。

     ◇

 初めて会話を交わしたといってもそれから僕らに何か大きな変化があったわけではなかった。
 いつものように彼女は僕の前に座り、僕は彼女の後ろ姿をただただ見ていた。ただ授業後には彼女の方から話しかけてくれ、僕は彼女の話に相づちを打った。
 彼女はいつもの白いミトンの手袋をしていた。秋も冬も、春も夏もいつも同じ手袋をしていた。彼女はこの手袋について何も語らなかった。僕も何も聞かなかった。よっぽど大切な手袋なんだろうな、そうずっと思っていた。
 今日のTOEIC試験中でも彼女は手袋を外さなかった。
 僕は試験中にもかかわらず前の席の千里に目がいってしまう。
 結局試験中はずっと彼女の後ろ姿だけを見ていた。リスニング四十五分、リーディング七十五分の計二時間もかかるこの試験だが、僕にとっては十分にも五分にも思えた。
 おかげでそこそこ準備していたにもかかわらず、後半は勘でマークシートを埋めるだけで終わってしまった。これで今年一年の英語は基礎のコースで受けることが確定してしまったが、もう受けてしまったものはしょうがないので試験終了と同時に僕は千里の席へと近づく。
「どうだったの?」
「魔法少女が一番苦手とするものは何か知ってる? それは英語なんだ。特にTOEICなんて試験は私達魔法少女が一番苦手とする部類のものだよ」
 魔法でどうにかなりそうなもんだけどね。
「君、それはズルって言うんだよ。もしもドラえもんが全ての事例を『もしもボックス』で解決したらそれはお話にならないでしょ。そんなことしたら天国の手塚先生は怒って火の鳥に乗って下界に降りてきちゃうよ」
 よくわからないがとにかくズルに魔法は使えないということなのだろう。あとドラえもんの作者手塚先生じゃないし。共通点ベレー帽ってぐらいだろ。あとトキワ荘つながりか。
「まあ、いいさ。私は君と一緒に基礎コースで英語を学習すればいいだけの話だから」
 どきっとした。
「なんで僕が基礎コースなんだよ」
「魔法少女なんだよ? それくらいわかるよ」
 千里はそう言って笑ってみせる。いつものように右頬に笑窪が出てきて、僕はまた顔が熱くなる。もう僕は駄目なのかもしれない。いろんな意味で。
「それで君はこれから予定があるのかい?」
 いや、ないけど。僕が忙しそうに見えるんだったらすごく嬉しい。
「いや、暇そうだから言ってみたんだ。だから無駄に喜ぶ必要はない。やったね」
 じゃあ、喜ばないことにするけど、なんでそんなこと聞くんだろう。
「うん。一緒に帰ろうと思ってさ」

 僕と千里は学校から駅に向かって歩いている。
 TOEICを受けるだけに学校に来た、という学生が比較的多いようで駅に向かう学生集団の中に僕ら二人は混じっている。
 確かに僕と千里はよく話す間柄になったとは言え、教室を出たらお互い別れて帰ってしまう、ただそれだけの関係だった。だから学校内を二人で歩いたこともなかった。
 当然一緒に帰るなんて初めてのことだった。そして僕にとっても誰か別の人と帰るなんて初めてのことなのだ。それも異性と……だ。
 初めて知ったことだが彼女は駅の近くで一人暮らしをしているらしい。
 僕の通っている大学は実家通いの学生が大半で女性はほとんどが実家から通っている。
 だから女子で一人暮らしをしているなんてよっぽど珍しいはずだ。
「たまり場とかにならないの?」
「そんな仲間に囲まれているように見える?」
 見えない。
「そんな即答されるとちょっとへこむ」
 本当に文字通りちょっとへこんでるらしく彼女の口数は少しずつ減っていった。
 駅前から寂しげな住宅街に入っていったこともあって周りはとても静かになって行く。さすがに謝ったほうがいいと思って僕は言葉を一生懸命探していた。
「あれ」
 いきなり千里が声を上げた。桜の木だった。ふんわりとした薄紅色の花びらが優しく地面に舞い降りていく。満開だね、と僕は目を細めて住宅地にひっそりと佇む桜の木を見つめる。
「そうじゃなくて」
 どうやら僕に満開の桜を見せたいわけではないらしい。
 彼女の指さす方向を見るとその理由がわかった。桜の木の枝に白くて丸いものが見える。
 白い猫が桜の木に登っていたのだ。鏡餅のような白くてまるまるとした猫が木の上から僕らを見つめている。
「猫だ。降りられないんだよ。きっと」
 そうかな……と僕がつぶやく前に彼女は心配そうに白猫に近づいた。
 しかし心配そうな千里を尻目に当の白猫は大きくあくびをしていた。さてはこいつ降りられるな? もうちょっとびくびく怖がっていれば可愛げのあるものを。
 降りられるんじゃない? という僕の言葉を聞いているのかいないのか心配そうな彼女の様子はいっこうに変わらない。
「降りられなかったら困るよ。誰がこの周りのねずみを取るって言うの?」
 別にこの猫以外にも猫はいるだろうし、見るからにねずみを追いかけるような性格に見えない。
 僕の予想はあっていたようで白猫はゆっくりと桜の木から地面へと移っていく。白猫は千里の心配なんて関係ないと言わんばかりに慣れた足取りで樹から下のコンクリートに着地した。
「偉いね。君は」
 彼女は本当に感心したようで軽く手を叩くと、しゃがんで白猫と目線を合わせた。
「おいで」
 千里の言うことがわかったのか、白猫はトットッとこっちに近づいてくる。そしてふわっと千里の胸におさまった。
「お利口だね」
 千里は優しく白猫をなでる。まるで自分の子どもをあやすかのようにゆっくりと優しく白猫に触れる。
「君も撫でなよ」
 彼女はそう言うと白猫を抱いたまま僕の方へとやってくる。
「僕、駄目なんだ」
「あー、さては猫嫌いなんだ。だめなんだぞ。好き嫌いしちゃ」
「好き嫌いとかじゃなくてさ。僕猫アレルギーなんだ。手が真っ赤に腫れちゃうんだ」
「本当に?」
 いくら今日がエイプリルフールだからと言ってこんな意味のない嘘はつかないって。
「昔は実家でも猫飼ってたんだけどね。その時は抱いても一緒に寝てもなんともなかった。だけど急に僕が猫アレルギーなのがわかるとその猫は親戚にもらわれていっちゃった」
「悲しかった?」
 わからない。もしかしたら悲しかったのかもしれない。
「それって失恋とかと同じ痛みなのかもしれない」
 彼女の口から「失恋」という単語が出てきただけで僕はどきっとしてしまう。
「僕はいままで恋をしてこなかったから失恋の痛みなんて想像もできない」
「本当に?」
 やっぱり彼女は嘘を疑っている。
「うーんと正確に言うと一回だけ人を好きになったことがある」
「そのことについて詳しく聞きたいな」
 嫌だよ。僕は首を横に振ってみせた。
「けち」
 絶対に言えるわけがない。その好きな人が君だなんてことは――。 けどエイプリルフールだから冗談として言ってしまえるかもしれない。だけど彼女にだけは嘘なんてつきたくなかった。エイプリルフールだろうがなんだろうが。
 どうやらずっと撫でられ続けたから白猫は退屈しているらしい。千里がつけている白いミトンの手袋に興味を示し始めた。小さな白い手でじゃれ始めたと思ったらかぷっと手袋に噛みついたのである。
「こら、だめ」
 そんな千里の忠告を聞く耳はもっていないようで、まるで親猫の乳にくらいついているかのように噛みついて手袋を離さない。
「生地が伸びちゃうんじゃない」
「むー」
 千里はこっちが見ていてもわかるくらいあからさまに困った表情を浮かべる。そりゃそうだ。常に身につけているくらい大事な手袋だ。きっと思い入れがあるに違いない。
「とりあえずそれ外したら」
 僕にとってはほんの軽い気持ちで発した言葉だった。だけど僕は自分の発言に後悔してしまう。
 今まで見たことないほど千里が落ち込んだ顔をしているからだ。
 僕と千里は一年しか付き合いはない。それでも彼女の気持ちが不安定になっていることは見てわかる。
 僕が謝ろうと口を開いた瞬間、先ほどの落ち込んだ表情は彼女から消えていた。
 代わりに何かを決意したかのような強い表情を見せていた。そしてゆっくりと彼女は手袋を外した。
 彼女の手はとても美しかった。
 手袋と同じように白く、綺麗な手だった。僕は彼女の手を見とれていると千里は恥ずかしさと不安が入り交じった表情を浮かべていた。
 僕には彼女が複雑な表情を浮かべている理由、そして常に彼女が白いミトンの手袋を欠かさない理由がわかった。
「だから魔法少女だって言ったでしょ」
 彼女は僕に向けて手を広げて見せる。
 彼女の右手は真ん中がぽっかりと開いている。中指と人差し指に当たる部分が欠けていたのだ。

 舞い散る桜の花びらが白猫の鼻にそっと止まる。くしゅっと小さなくしゃみをするが花びらはとれない。
「小さいころから気味悪がられたよ。同級生は元より、実の親にもさ」
 僕は何も言えずただ白猫の鼻についた花びらを見つめていた。
「小学校の時はいつもズボンのポケットに手を突っ込んでた。女の子でそんなことしてるのは当然私だけだから変な目で見られたし、生意気に思われていじめられたりもしたよ」
 恥ずかしくって銭湯や温泉なんかも行ったことないんだ、と千里は寂しそうな笑みを浮かべる。この時ほど彼女の笑窪を悲しく思ったことはない。
「けど辛いことばっかりで疲れたからもう悩むのはやめた。だから私は特別な力があると思いこんだんだ。この指はその印なんだって」
 白猫が彼女の指をペロペロと嘗め始める。
 僕は猫の舌のザラザラした感じを思い出していた。さらに猫を触った後の手の腫れた感じとか小便するたびに腫れた手がジクジク痛む感じとかを思い出していた。
「だけどもう一九歳にもなったからそろそろやめようと思うんだ。結局その思い込みも逃げでしかないから。だから嘘をついた」
 彼女は優しく猫の鼻をぬぐう。
 白い花びらがコンクリートに向かってゆっくりと落ちていく。
「実は私、魔法少女じゃないんだ。魔法も使えないし、指もない気味が悪い女なんだ」
 彼女は猫をゆっくりと地面に優しく下ろす。すると猫はあっという間に僕らの目に見えないところまで行ってしまった。
「ごめんね。別に君を困らせるつもりはなかった」
 別に困ってなんか、だけどその言葉が口から出ていかない。彼女はそんな僕にお構いなしで続ける。
「わざわざこんなところまで付いてきてもらって。しかも嘘までついて。ごめんね」
 彼女の目が潤んでいるように見える。気のせいであって欲しい、僕はそう思った。
 だけど彼女の目からは一筋の滴がつうっと流れていく。それも涙なんかじゃ無ければいいのにと僕は祈った。
「今日はわざわざありがとう。こんな嘘つきに付き合ってくれて」
 もうここでいいから、彼女はそう言って僕に背を向けた。このまま彼女は僕のいない遠くへ行ってしまうような気がした。もう会えない気がした。

「嘘つきなんかじゃないよ」
 今まで生きてきた中で一番大きな声を僕は出していた。
 千里が振り返ったのがわかった。僕が叫んだことが思いも寄らないことだったようで彼女はまん丸な目をして僕のことを見ている。
「魔法を使えないっていうのは嘘で実は使えるんでしょ?」
 僕はゆっくりと千里に向けて歩を進める。彼女は僕に何か言いたげだが上手く言葉が見つからないようだった。
「僕は社交性が全くないんだ。そもそも人と交流することに全く興味がない。何週間、いや何年も人と会話しなくても大丈夫なんだ。僕はそういう人間なんだ」
 こんなに言葉を発するのは実は初めてかもしれなかった。ちゃんと発音できてるか、変なイントネーションになってないか、そんな心配ばかりが頭に浮ぶ。でも今は彼女に伝えたいことがある、その一心で僕は声を出していた。
「そんな僕がこうやって人の目を見て人と会話している。これは魔法以外のなにものでないよ」
 喉がひりひりして、そして重かった。唾を飲んだらきっとすごく痛いに違いない。
「そして僕は一人の女の子を好きになった。今まで恋愛なんて一回もしたことなかった。だけど今はその女の子が好きで好きでどうにかなっちゃいそうなんだ。その子はいつも白いミトンの手袋をしてる」
 僕は手袋を拾い上げると彼女に渡す。
「そしてその子は魔法少女なんだ。こんな年の男が言うとものすごく変かもしれないけど、僕は魔法少女が大好きなんだ」
 言いたいことは全て言い尽くしていた。もう何も頭に文字が浮んでこない。だけどもう何かを言う必要がなかった。魔法少女が僕に抱きついているから。
 魔法少女は僕の胸で身体を震わせていた。もう彼女にかける言葉はない。僕ができることはこの魔法少女をそっと抱き寄せてやることだけだった。

     ◇

 僕の胸に包んでいた魔法少女は少しずつ落ち着いてきたようだった。身体の震えがだんだんと治まってきていた。
「ねえ、もう一回だけ魔法をつかっていい?」
 僕はこくんと頷く。
「目の前の男の子はみんな目の前の女の子の手に手袋をはめたくなるの。そんな魔法」
 僕はそっと彼女の手をとる。
 冷たくってすべすべしていて何よりも柔らかかった。たぶんこの世で一番柔らかいんじゃないかって思えるほどだった。
「……くすぐったい」
「それは魔法じゃどうにかならないの」
「ならない」
 笑窪が浮かんでいた。僕はそこに自分の唇を押しつける。
 やっぱり彼女は驚いていたけど、お返しに自分の唇を僕の唇に押しつけてきた。これも柔らかかった。この世にこんなに柔らかいものが二つもあるなんて。
「今のは、唇を重ねたくなる魔法?」
 僕がそう言い終わる前にもう一回柔らかい唇が僕に飛び込んでくる。
「そんな魔法かけてないよ」
 笑いながら彼女は僕の手を握ってきた。
「今かけたのは、このまま私のアパートにあがってお茶を飲みたくなるって魔法だよ」
「確かに喉が渇いてた。やるもんだね。魔法少女ってやっぱりすごいよ」
 僕らは手をつないで彼女のアパートに向かった。
  どうやら魔法少女は僕という仲間を手に入れたみたいだ。そして僕は仲間として彼女を敵から守らなくちゃいけない。どんな敵がいるかわからない。邪悪な魔王 かもしれないし、意地悪な魔女かもしれない。どうやって彼女を守ればいいかわからない。うまくいくかどうかもわからない。だけどきっとどうにかなるだろ う。なにせ彼女は魔法少女なんだから。
 僕はもう一回彼女の手をぎゅっと握る。遠くで小さく猫が鳴く声が聞こえた。(了)

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