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夏の始まりの魔法少女

 どうしてこうも試験前というものは、眠いのだろうか。それはたぶん寝ていないからだ。なんで寝ていないのか。寝ていたら試験範囲の勉強が終わらないからだ。なんで終わらないほど勉強しなければいけないのか。普段全く勉強をしていないからだ。

 深夜三時。僕は今日も今日とてパソコンのディスプレイとにらめっこしていた。
 キーボードの横には栄養ドリンクの空き瓶が並ぶ。たぶん今が人生で一番不健康なんだろうなって思う。
 いっそのこともうあきらめて寝てしまおうか。なんだかんだ言ってまだ僕はまだ二年生なのだ。残りの大学生活はあと二年もある。明日の「法哲学」の単位を落としたところで後でいくらでも取り戻せる。
 僕は意を決して布団へとダイブしようとすると、どこからか寝息が聞こえてきた。安心感に満ちあふれた優しい寝息はどうやら僕がダイブしようとしている布団から聞こえてくるようだ。
 見ると魔法少女が眠っていた。
 この魔法少女の名前は高峰千里。僕のクラスメイトだ。
 彼女とは去年に引き続きクラスメイトという間柄になっていた。お互いTOEICの成績が芳しくなく、僕と彼女は必修の英語を基礎コースの中でも最低ランクであるAコースというクラスに割り振られてしまったのだ。
 このクラスは学生の中でAコースの頭文字をとって「アホコース」などと呼ばれている。必修の英語はよっぽどのことじゃない限りこのクラスにはならないらしく、TOEICをサボったり壊滅的に英語ができない学生のたまり場なのだ。
 ちなみに僕は試験中に千里に見とれていたため、千里はあろうことかすべて同じ記号をマークしたために「アホコース」入りしてしまった。
「どうしてそんなことしたの?」と僕は千里に聞いてみると「簡単なクラスほど単位が取りやすいじゃない」とのこと。
 なるほど。そういう考え方もあるのか。
「君も同じなんでしょ?」と彼女が聞いてきたがまさか「君を試験中ずっとみていたから」とは言えずに「もちろんそうさ」と答えてしまった。彼女にだけは嘘をつきたくなかったのだが、今回ばかりはしょうがない。

 そのクラスメイトの魔法少女は僕の布団の中で丸くなって熟睡中のようである。
 この幸せそうな寝顔を見ていると彼女の睡眠を邪魔するということがものすごく大罪で、それでいてものすごく心が痛むのである。 僕はゆっくり息を吐くと再びパソコンに向かい論述試験の回答を作る作業へと戻る。
 それにしてもなんでこんなに試験前に気持ちよさそうに寝ていられるのだろう。その身持ち良さそうな睡眠を一時間だけでいいから僕に分けてほしい。
 別に彼女は既に試験をあきらめているわけではない。逆に試験の準備が万全なのでやることがないのである。同じ講義を同じ回数出ているのに僕とのこの差は何なんだろう。
 確かに僕が試験二日前にやっとこさ試験範囲を確認しているくらいのスロースターターであることは否定しない。
 さらに一夜漬けにすればいいやと昨日は家で映画を見ながらビールを飲んでいたことも否定はしない。
 そして試験勉強を始める前に自分のノートの字が汚すぎて、その文章の解読が勉強そのものをさらに遅らせたのも否定しない。
 まあ言うならば結局僕がだめ学生で千里が模範的な学生であるということだけのことだ。

 僕と千里はお互いのアパートを行き来するようになっていた。
 別に何をするわけではない。同じ部屋にいるもののお互い別々のことをしているのだ。この自由さは他の男女にはもしかしたらないかもしれない。
 僕が死にものぐるいでアラビア文字と化している自分の字を解読している最中に彼女は優雅に読書しながらティータイムとしゃれ込んでいたぐらいである。

     ◇

「ティーカップない?」
 夜七時。僕の部屋に入ってきた彼女は開口一番そんなことを言ってきた。
「お邪魔します」の一言もないのだが、これはいつものことなので別に気にしない。
 男の一人暮らしのアパートにティーカップなんてしゃれたものはないので、実家から持ってきた湯飲みを渡してやったらため息一つした後、渋々と自分で紅茶を入れて飲み始めた。
 そんなに露骨な顔をしなくったっていじゃないか。地元では有名な寿司屋の湯飲みだぞ? なんてことを思いながら僕はアラビア文字解読を再開する。
 僕がパソコン用のデスクでノートと格闘している間、彼女はこたつで紅茶をすすりながら文庫本を読み耽っていた。
「ここはこたつがあるからいいね」
 彼女はこたつ布団を優しくなでながらぽつりとつぶやく。
「そう?」と僕は返す。
 実はただ単に片付けるタイミングを失って七月の今に至るのだ。本当だったら呆れられてしかるべきなのだが、なぜか彼女は喜んでいる。
「なんだか実家にいるみたい」と言って彼女は魚へんの漢字が規則的に並べられている湯飲みを口へと運ぶ。
 そういえば彼女は雪国の出身だった。
 彼女は北関東の中でもさらに北に位置する地方から来ていて、彼女曰く「東北の都心なんかよりよっぽど雪が積もる場所」らしい。なんでも通学にスキーを使うらしいがこれは本当のことかどうかはわからない。
 とりあえず寒いところから来ているということはわかった。彼女の地元ではまだこたつが七月でもフル稼働しているのだろうか。とにかく千里が喜んでいるみたいなのでこのこたつを片付けるのはまだ先になりそうだ。

 ようやくアラビア文字を解読できたころ、彼女は文庫本を片手に船をこいでいた。とうとう力尽きたらしくばさっ、と文庫本が床に落ちる。
「おねむですか?」半分馬鹿にしたような態度で僕が尋ねると彼女はだまってこくん、と頷く。どうやら本当に眠いらしい。
「だったらちゃんと布団で寝な。こたつで寝ると体に毒だよ」
 普段からこたつを布団代わりにしている僕が言えた義理ではないのだが、一度このセリフを言ってみたかったのだ。
「君は母親かぁ」寝ぼけ眼で彼女はそう呟く。
 そりゃそうだ。僕がいつも母親から言われていることなんだから。
「はいはい、わかったからお布団行きなさい」
 微妙に口調を母親に似せてみたが彼女がわかるはずがない。
 むー、と不機嫌そうな顔を見せると布団までとぼとぼと歩き、そのまま倒れ込むように横になった。
「寝るときは眼鏡ぐらいはずしなさい」
 細かすぎて伝わらない自分の母親の物まねで彼女に詰め寄る。この言葉も耳にたこができるほど母親に言われたものだ。
 実はこの言葉は僕にとってはありがたいもので、この一言を無視してそのまま寝てしまうと翌日の眼鏡が大変なことになっていたりするのだ。
 レンズに深い傷がつき、フレームがあり得ない方向に曲がるというダブルパンチは長年の眼鏡愛好者としては実に痛い。
「むぅ。あれかな? 君は私のママをストーキングしているな。そうじゃなきゃここまでママの口癖をここまで再現できるはずがないのだー」
 もちろん僕はストーキングどころか彼女の母親に会ったことすらない。どうやらは母親というものはどこの家も似たり寄ったりするものであるらしい。
「うー、はずす気力がない。……もうわしはだめかもしれん。あとは頼んだぞ若人達よー」
 いや、勝手に後を頼まれても困るんだけども。
 本当に眠気がピークだったようで、千里は掛け布団代わりのタオルケットを足に絡ませるとそのまま寝息を立てて寝てしまった。試験期間だけあって、余裕に見える彼女なりにもやっぱり疲れているのかもしれない。
 僕は彼女に近づくとそっと眼鏡を外してやる。人の眼鏡を外すなんてことはこの二十年間の人生で一度もなかったので少し緊張した。
 彼女の銀縁のフレームはほんの少しの力でなんだかすぐに壊れてしまいそうだった。それは持ち主の千里が華奢な体から僕が勝手にイメージしてしまっているだけかもしれない。
 眼鏡を外すと同時に彼女の優しい匂いが鼻孔をを刺激する。
 甘酸っぱくて安心感に包まれるような心地よい香り。女の子ってこんなに優しい匂いがするんだなって思う。香水とか制汗スプレーとかそういうのとは違う匂い。いつまでも彼女自身の匂いに囲まれていたいような気もする。
 ただパソコンデスクの栄養ドリンクの空き瓶の山で現実に戻されてしまうのだ。僕はタオルケットで彼女を覆ってやるとまたパソコンデスクへと戻ったのだ。

     ◇

 だんだんと空が明るくなってきた。
 なんとか論述試験の解答を作り終えたころには朝の五時近くになっていた。
 ちなみに論述試験の解答を作り終えたからといってこれはゴールではない。これからこの論述を暗記する作業が待っている。ゴールどころかスタート地点に立っているんだかいないのだかといったところである。
 試験開始が午前九時。とは言え出席カードの記入や問題用紙配布の時間もあるため試験開始十分前には試験会場の教室に着いていなければならない。
 このアパートから大学までが徒歩二十分ほどかかるため、余裕を持って八時にはアパートを出たい。となると残り三時間でA4用紙五枚ほどを暗記するわけだ。
 正直なんとかなりそうだった。人間死ぬ気になればなんとかなるものである。
 ただ心配なのは連日の試験で疲れがピークだと言うところと、布団で寝ている魔法少女の誘惑に勝てるかどうかといところである。
 魔法少女の寝顔は徹夜明けの僕のやる気を無くすには十分すぎるほど愛らしいものであった。
 彼女が「ん……」と小さな寝息を漏らすたび、ゆっくりと寝返りをうつたび、僕の全ての行動はストップしてしまうのだ。
 よく考えてみれば侘びしい男の一人暮らしアパートに女の子が一人寝息を立てているのだ。この状態を平常を保てというほうが無理ってやつだ。実際のところもう試験勉強どころではない。
 それでもなんとか論述試験の解答だけはこなすことができていた。ただ解読したアラビア文字と教科書とネットから拾ってきた文章を組み合わせるだけの作業だからだ。
 これは何も考えなくても作業だけはできる。頭の中が彼女の寝顔で一杯になっても手だけは動かせる。
 だが暗記となるとそうはいかない。
 この組み立てた文章を頭の中に入れるためには頭の中の千里をどこかへ飛ばしてしまって、頭の中を空っぽにしないといけない。
 けどたぶんそれはどうにかなる気がした。頭が「火事場の馬鹿力」ならぬ「試験前の馬鹿力」というモードに切り替わればあとはもう楽勝である。このモードに切り替われば休憩なしでいくらでも暗記が可能なのである。
 ただこのモードの欠点は試験終了のチャイムと同時にすっぽりと知識が抜けてしまうことと、早くとも試験開始三時間ぐらいにならないと発動しないというこという不便さにある。
 だが今まで何度このモードのお世話になったかわからない。おかげで前学期に学んだことのほとんどを覚えてなんていないのだが。
 というわけで僕はこの「試験前の馬鹿力モード」へ頭が切り替わるのを待つことにした。そうなればこの単位はもらったも同然である。

 正直なんとかなりそうになかった。夜は完全に明けていた。時計の針は午前六時を指し示している。結局、今の今まで「試験前の馬鹿力モード」は発動することはなかった。
 ここに来て一つの疑惑が浮上してくる。実はこのモードは女の子が横に寝ていると発動しないのではないか、ということである。いや、もう疑惑どころじゃない。これは確信だ。
 女の子――というより千里が僕の横に寝ていると「試験前の馬鹿力モード」は発動しない。絶対に。
 僕の頭の中には暗記すべき文章が入ってくるどころか彼女の寝顔ばっかりが埋まっていく。たぶんもう僕の頭には文章が入るスペースはない。
 僕は試験を半分諦めて魔法少女の寝顔を眺める。
  彼女の幸せそうな寝顔を見ていると試験なんてどうでもよくなっていく。目の先の試験のことだけじゃない。大学のこととか、就職活動とか、これから選ぶゼミ とか、卒業してからのこととか、今まで手を付けずに放っておいてあるこれから先への漠然とした不安をも彼女の寝顔を見ていると忘れてしまいそうになるの だ。
 緩やかな寝息が止まった。彼女の小さな瞼がゆっくりと開いていくのがわかる。
「起きた?」
 僕が尋ねると彼女はゆっくりと頷いて「起きた」と返してきた。
「ここ、私の家じゃないね」眼鏡をかけていなくてもここが自分の家ではないことはわかったらしい。
 僕はこたつの上に置いておいた眼鏡を彼女に差し出す。
 眼鏡をかけた彼女はやっぱり高峰千里に間違いがないようで一気に見覚えのある顔になる。だけどやはり瞼は重そうで全体的にとろーんとした雰囲気を醸し出している。やっぱりまだ眠いらしい。
「おはようございます」
 彼女は瞼が重いながらもぺこっとお辞儀。
 僕もそれにつられて「おはようございます」と頭を下げた。
「今何時?」
「そうね。だいたいね」
「え?」
 何言ってるの? という顔で千里がこっちを見てるので無償に恥ずかしくなった僕はパソコンデスクに置いてある目覚まし時計を彼女に渡すと流し台へと逃げた。
「ねー。何が『だいたい』なの?」 
 すいません。忘れてください。お願いします。もうしません。
「……変なの」
 どうやら僕をからかってるわけでもなく彼女は純粋に知らないようだ。
 そんな彼女の無垢なところが死ぬほど好きなのだが、この気持ちをどう処理していいかわからない。
 僕は電気ケトルでお湯を沸かすと、粉末のインスタントコーヒーを入れた例の寿司屋の湯飲みに注いだ。
「湯飲みにコーヒー」は「湯飲みに紅茶」に負けず劣らずのミスマッチさだが、マグカップというものがないものはしょうがない。自分の分は味噌汁用のお椀に注いだ。
「まさかずっと試験勉強してたの?」
 僕が部屋に戻ると千里はパソコンデスクにある栄養ドリンクの数を数えていた。
「まあね」
 僕は湯飲みコーヒーを千里に渡すと彼女の隣に腰を下ろした。
 何のツッコミもなしに湯飲みに口をつけている彼女を見ているとマグカップくらい買ってもよかったんじゃないかという気になってくる。今度ダイソーでものぞいてくるか。
「あひゅい」
 千里は涙目ながらに訴えてくる。どうやら「熱い」と言っているようである。
 そりゃあいれたてだから熱いのは決まっているのだが、涙ぐんでいる彼女が可愛らしくみえたので黙ってその様子を観察することにした。
 ふーふーと子供らしい優しく息を湯飲みに吹きかけてゆっくり恐る恐る口にコーヒーを運ぶ。
「……うま。君は法律を勉強してる場合じゃないよ。早く田舎に数人の常連客だけでなんとかなりたってるような喫茶店のマスターになるべきだ」
 粉末にお湯を注いだだけなんだけどな。あとその喫茶店の設定付けがよくわからないし。
 それにしてもなんでこんなにうれしそうにコーヒーを飲むのだろう。いつもながらに無邪気な彼女の笑顔には小さな笑窪が浮かんでいる。
 彼女と出会った当初はこれを見て赤面してたのだが、今となってはお椀のコーヒーをすすりながら眺めることができるようになっている。もう完全に「法哲学」の単位を諦めて僕は彼女と朝のコーヒーを楽しんでいた。

「もうすぐ夏休みだね」
 湯飲みにコーヒーのお代わりを注ぐ。
 彼女はまだ眠さが残っているようでこたつに丸まってうとうととしている。話かけないで寝させてやればよかったかな、と思ったら千里は「ふに?」と僕の目を見る。
 僕はなんだか恥ずかしくなって目をそらしてしまうのだが、彼女はそんな僕を見てにまっと笑った。
「そうだね。夏休みだね」
 今度は僕をからかっているようでにまにましながら僕の顔を見つめてくる。
 楽しそうな千里を見る分には別にいいのだけど、恥ずかしさで顔が熱くなってくる。やっぱりこの赤面するくせはいつまでたっても治らないらしい。
「君は夏休みはどうするの? 家出するの? 実家に」
 にやけた顔のまま彼女が聞いてくる。えっと一般的にはそれを「帰省」って呼ぶんだよ? 確かに「家」を「出」てはいるんだけどさ。
「ん……去年はそうだったけど今年はここにいようかなーって思って」
「どうして? 地元嫌い?」
 どきりとした。なんでこういうところだけ鋭いのだろうか。女の勘ってやつは本当にあるのかもしれない。
「いや地元は嫌いじゃない」
  これは本心だった。僕が嫌いなのは地元そのものではなくて地元に住んでいる人間だ。僕と同じように大学やらで就職やらで地元から出ていってはいるものやっ ぱり夏休み中は帰ってきているらしく、見ただけで胃が痛くなるような連中が実家の周りをうじゃうじゃしているような環境で過ごすことは僕にとっては苦行そ のものである。
 去年は大学一年目の夏休みということで地元で夏休みを過ごしたのだが、一向に心休める期間がなかった。
「心休めなくて何が夏休みだ」という結論に至ったので今年の夏は大学のあるこの町で過ごすということを決めていた。
 それにしても二ヶ月もの長い休みを一人で持てあますのは退屈に違いない。アルバイトでもしてみようかとは思ったが、体力と社交性と根気が欠けるという駄目人間代表の僕にできるバイトなんてあるだろうか。
「とにかく一人でモラトリアムを満喫しようと思ってさ」
 とりあえずそんなことを言ってごまかした。
「ふーん。そんな楽しげな計画があるんだったら私の入る余地はないようだね」
「え? 君もこっち残るの?」
「まあね。帰ったら家の手伝いさせられていることはわかりきってるからね。家には夏休みの課題が大変で帰れないーってことにしてある」
 そういえば彼女は温泉宿の一人娘だったっけ。中学から高校にかけては部活もしないで家の手伝いばっかりしていたらしい。
「夏休みは字の通り『休む』日だよ。家で寝転んで『タッチ』の再放送を見ながらガリガリくんを食べておなか壊す……そんな一般的な夏休みの過ごし方をしたいんだ私は」
 いや、それが一般的な夏休みの過ごし方かどうかはわからないんだけど、とにかく彼女も僕も今年の夏はこっちに残るということだけはわかった。
 一人で退屈に夏を過ごすことしか考えてなかったから、なんだか嬉しくなってきた。疲れた脳にカンフル剤が入った感じだ。
「君には夏休みの思い出って何かないの?」
 僕にそう尋ねた彼女の顔はもうにやけてはいなかった。
 夏休み……と言われて振り返っても友人と呼べる存在がなかった僕にとっては楽しかった夏休みの記憶はない。

     ◇

 夏休み。
 僕はどこかへ遊びに行くわけでも、どこかに旅行へ行くわけでもなかった。ただ毎日毎日机の角を眺めていた。
 朝起きてラジオ体操には行っていた。
 学校からラジオ体操のスタンプカードが配られていてそれを学校に提出しなければならなかったからだ。朝起きてラジオ体操の会場である近所の公園に向かうと同級生は既に集まっていた。
 同級生はまず僕を見つけるといやな笑顔で僕に寄ってきて「とりあえず」の感覚で僕の腹部に打撃を与える。その行為は僕の中で「とりあえずパンチ」と呼んでいた。
 一人目、二人目、三人目、と続き、大人しめの同級生は明らかに手加減して殴ってくれる。だけどその手加減に対しても僕は同じような「痛い」というリアクションをする。
 そいつが手加減しているのが周りにばれないようにだ。ばれた日にはそいつが「とりあえずパンチ」の標的になってしまう。
 パンチの標的になっている間僕は笑顔を忘れない。これは周りの大人にいじめだと思われないようにだ。
「これは遊びでやってるんですよー」という笑顔を僕は大人達にみせる。それが僕にとっては正義だと思っていた。僕は自分自身を正義の味方だと信じて疑わなかった。
 僕が大人に君たちのやってることをばらしたら君たちの人生は大変なことになりますよ。僕はそれを阻止してるんです。すごいでしょう。褒めてもいいんですよ。僕のことを。そう思いながら僕は笑顔を作る。
 そしてラジオ体操が始まったと同時に同級生は僕の元を離れる。僕の中には「新しい朝」も「希望の朝」もこない。もちろん「喜びに胸を開け」と言われても喜びなんてどこにもない。
 当然のことながらラジオ体操中はじわじわと腹部の痛みが広がる。
いち、に、さん、し、開いて、閉じて、開いて、閉じて
 この一連の流れは決して「とりあえずパンチ」をされた後の人間がする行為ではない。健康のためにあるはずのラジオ体操でこれだけ健康を害しているのはたぶん日本広しと言えども僕ぐらいのもんだったに違いない。
 それでもラジオ体操第二が終わるころになったら腹部の痛みは治まってくる。
 係の人に判子を押してもらっているころにはもう完全になくなっているのだが、今度はラジオ体操恒例行事である「さようならパンチ」の五連続が僕の腹部にやってくるので夏休みの朝はとにかく腹部が痛かった。
 そして家に帰ったら絵日記という名前の創作活動を開始するのである。自分の夏休みを頭の中に想像してノートに書く。
 絵日記の中での僕はものすごく優等生でものすごく物語の主人公気質であった。あるときはお年寄りを道に案内し、またある時は近所の子供達の遊び相手になっていた。実際は腹部をさすりながら机の角を見ていただけだったのに。

     ◇

 後悔した時はすでに遅かった。
 あろうことか僕はこのどうしようもない夏休みのことを彼女に話してしまっていた。たぶんこんな話は人にすべきことではないんだろうと思う。
  実際に高校時代にあるあるネタ的な話で委員会の後輩にしゃべってどん引きされた経験もある。だから僕は基本的に人に自分のことは話さなかった。というより ここ最近は人と話すこともなかったのだが、なぜだろう。気がついたら彼女に絶望的に引かれることうけあいな話をしてしまっていた。もしかしたら徹夜続きで 多少テンションが高くなっていたのかもしれない。
 どん引きされるのは正直覚悟していた。もしかしたら彼女と話すのもこれで最後かもしれなかった。なんであんなことを話したのだろうという後悔で一杯だった。

 僕が話終えたとたんに彼女はすっと立ち上がった。やっぱりなと僕は視線を下に向けた。
 その瞬間、ふわん、と頭に何かに包まれた気がした。
 それが彼女の手だということがわかるののには少し時間がかかった。柔らかくて暖かい彼女の魔法の手。もう人の前では白いミトンはつけることはなくなった。彼女は魔法の手を自分自身で認め始めていた。
「やめてよ」僕は言った。
 というのは別になでられる行為そのものがいやだったわけではない。徹夜明けでボサボサで油っぽい頭を彼女に触らせることに抵抗があったからだ。
「ううん。やめない」
 悪戯っぽい口調な彼女は言葉通りなでるのをやめなかった。悪戯っぽいのは口調だけでなでる手はとてもゆっくりで優しいものだった。僕は抵抗することを諦めて彼女に身を任せた。
「つらかった?」
 彼女の問いに僕はちょっとだけ考えて「わからない」と返す。
  つらかったのかもしれない。ただつらかったという記憶があまりない。同級生に嘘の笑顔を作っていたのはあの夏休みだけじゃない。地元にいる間僕はずっと 笑っていた。確かにおもしろいから、楽しいから笑っていたわけではなかった。あのころの僕はつらかったのか。そう過去の自分に問いかける。痛みが止まない 腹部を自分の手でなでる僕に問いかける。お前、つらくないか。
 一粒の涙が頬を伝うのがわかった。それが過去の自分からの答えだったに違いない。
 僕は彼女に顔を見られまいと僕は足下に目を落とした。
 それでも彼女は変わらずに僕の頭をなで続けてくれている。涙がとまらなくて僕のGパンに斑模様を作る。
 試験前のはずだった。これから試験に臨むはずだった。涙がこぼれ落ちるのと同時にどんどん知識が抜け落ちていくような気がしてくる。
 試験前に泣いてる大学生がどこにいるのだろう。しかも女の子の前で。こんなにかっこわるいことがあるだろうか。時間は八時を回っていた。もう単位のことなんてどうでもよかった。ただただ彼女の前で僕は泣き続けていた。

 気がつくと僕は布団に横になっていた。
 時計は午後の四時を回っている。もうとっくに「法哲学」の試験は終わっていた。結局試験を受けずじまいになってしまっていたのだ。出席をしなかったのでもう追試も受けることもできない。
 だけどなぜか気分はすっきりとしていた。久々にまともな睡眠をとったからだろう。横になった記憶がないから眼鏡をしたまま眠ってしまったのだろうと枕元を探して見るが一向に自分の眼鏡は見つからなかった。
 起き上がって周りを見渡すとパソコンデスクに自分の眼鏡らしきものを見つけた。寝ぼけている自分が律儀にパソコンデスクに眼鏡を置くわけではないのできっと彼女がここに置いてくれたのだろう。
 僕は眼鏡をかけると彼女を探した。
 どうやら彼女は部屋から出て行ってしまったらしく、彼女のカバンも靴も見当たらなかった。
 そうだよな。こんな朝から泣き出して寝てしまう男の部屋になんかずっといる理由なんてないもんな。
 それに彼女だってまだ試験は残っていただろう。僕と違って優秀な彼女のことだからもしかしたら図書館で試験勉強でもしてるかもしれない。
 僕は試験勉強で荒れた部屋を片付けつつ、試験の時間表を確認する。すると今日の「法哲学」の試験で僕の試験全日程がほぼ終わっていたことに今更になって気づく。
 正確にはあと二教科ほど残っているのだが、その講義の感想を数行核だけ、という試験対策もなにも必要ないのでもう眠い目をこすってモニターとにらめっこする必要はなかった。
 何もする必要はないとわかると急にもの寂しくなってしまった。試験中はいろいろとやりたいことがたくさんあったはずなのに、いざ急に暇になってしまうと何も思い浮かばない。ただ彼女に会いたくて仕方がなくなっていた。
 一応彼女の電話番号もメールアドレスも僕の携帯には入っている。だけど彼女は今試験中かもしれないし、勉強中かもしれない。そんな彼女に連絡するのは気が引けた。
 もう一眠りしてしまおうか。
 そう思った瞬間、階段を上がっていく音が聞こえてきた。彼女だったらいいな。そう思いながら僕は布団にもぐりこんだ。

「まだ寝てるの?」
 まさかと思った。
 昨日と同じ服を着た彼女はコンビニの袋をぶらさげながら僕の前に現れていた。僕はとりあえず狸寝入りをしてみる。
「そこ。寝たふりしない」
 なんでばれたんだろう。
「眼鏡。したまま寝ないの……でしょ」
 どうやらこの魔法少女には全てお見通しらしかった。
 どこ行ってたの? と尋ねると「これ買ってきた」とコンビニ袋から缶ビールを取り出した。
 彼女は僕の横に座ると「ほいっ」と僕にビールを渡す。
 何で? と僕が言い終わる前にプシュウっとプルトップを開けていた。僕もそれを見て缶を開ける。そこそこ歩いてきたようで泡がこぼれそうになったので思わず口を押しつける。
「あー、フライングだ」
「いや、これは不可抗力だよ」
「まあ、いいや。乾杯しよ」
 タンっと軽く缶ビール同士をぶつけ合うと僕はビールを思いっきり喉に押し込んだ。起きたばかりの喉に痛いくらいに弾ける炭酸がなんとも心地よい。
 同じく喉を鳴らしてビールを貪り飲んでいる彼女も「くぅあ」とおっさんみたいな声を出す。
「やっぱり昼からのビールは格別だね」
「うまい……けどさ。何で?」
「何でって?」
「いや、さっきフライングとか言ってたから」
「ん? 夏休みが始まるお祝い」
 彼女はそう言い終わるや否や缶ビールを一気に飲み干した。
「ってことはもう試験終わったの?」
「うん、さっきね――」
 僕が寝てる間に試験に行ってきたんだろうか。
「時計見たら試験時間終わってた」
 彼女はそう言うと二つ目のビールを開けていた。
 ということは君は今の今までアパートにいたってことで……。
「うん、君の寝顔を観察してました。今度この様子を論文にして発表しようと思ってる」
 そんな一単位にもならない論文は書かない方がいいと思う。
「それでね。君も今日試験が終わるだろうと勝手に思ってビールを買いに走ったのだ」
「なんでそんなことまでわかったの。正解だよ」
「ふふん。魔法少女の勘ってやつだよ」
 そこは魔法使わないんだ、というツッコミは言うだけ野暮な気がした。

 窓から心地よい風が部屋に入ってくる。
 僕らは缶ビールを三本ずつ開けてお互いほろ酔い気分で風にあたっていた。
 窓から外をのぞくとなぜだかいつもより騒がしい気がした。
 今日は平日なのになぜ……そんなことを考えてると、彼女が僕の手をぎゅっと握ってきた。
「それじゃあ行きますか」
 なんのことだかわからなかった。
 何処へ、何をしに? そう聞く前に彼女はぐいぐいと手を引っ張って外へと僕を連れていく。
 連れて行かれた先は近所の商店街だった。
 普段はさびれているはずの小さな商店街にはいろんな種類の出店が並んでいた。どうやら商店街規模のお祭りがやっているらしい。縁日と呼べるほど大きなものではないが、浴衣を着た中高生や家族連れで賑わっている様子だった。
「行こう?」
 僕の手を魔法少女は僕の手を優しく握る。
 正直こういう出店の中を歩くのは生まれて初めての経験だったから思わず足がすくんでしまう。
「大丈夫だよ。この夏は私が君を守ってあげる」
 彼女は僕の手を引っ張って人混みの中へ連れて行った。
 自然と重かった足も彼女の後を追えるようになる。やっぱり彼女は魔法少女なんだと確信した。
 僕の手を握った後、彼女の顔が少し赤くなる。さっきのビールが今頃顔に出たの……なんて聞くのはなんだか恥ずかしかった。
 もしかしたらそれは魔法の代償なのかもしれない。僕は黙って魔法にかかることに決めたのだった。


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