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彼女の部屋と優しい粒

    1

 昔から人の家は苦手だった。
 なんだか変に心臓が高まってしまい、気が気でなくなってしまうのだ。
 私は小さいころからいつも自分の部屋で遊んでいたし、友達と遊ぶことになっても必ずと一言っていいほど自分の家に呼んでいた。
 そんな幼少期を送っていたから高校生になった今になっでも内気で引っ込み思案な性格は直らないままである。
 いや、たぶん直そうとしていないのだ。自分を変えてしまうのを怖がっているだけかもしれない。



 綾が住んでいるのはCMでもおなじみのワンルームマンションだった。
 なんだかおもちゃみたいだな……なんてことを思ってしまう。
 茶色がかった壁には小さなドアが規則的に並べられている。このドアを開けたら小さなころに遊んでいた人形やぬいぐるみが顔を出しそうなくらい可愛らしい建物だ。
 緊張で胸から心臓が出て来そうだった。
 私は携帯で綾の部屋番号をもう一回確認する。
 301号室。
 階段を上がってすぐの部屋だと言っていたので、すぐに彼女の部屋を確認できた。
 けどもしも間違ったらどうしよう。
 さすがに綾が自分の部屋の番号を間違って教えることはないだろう。
 けど、本当に301号室なんだろうか。
 本当は310号室だったりしないだろうか。
 そんなことを考えているうちに一階の部屋から住人らしき人が出てきた。
 部屋を出て私のほうに歩いてくる。茶色い髪をした若い男の人。きっとこの近くの大学に通う大学生さんだろう。
 私はとっさに頭を下げると、向こうも「どもっ」と軽くお辞儀をしてきた。
 大学生さんは駐輪場で自転車にまたがるなりこのマンションから去っていく。知らない人に挨拶されただけでますます私の緊張は高まる。
 いつまでもここにいたら緊張で死んじゃいそうだった。
 緊張で死んじゃったらかっこわるい。たぶん親戚中に末代まで語りつがれることは請け合いだ。
 ここはさっさと綾の部屋に行くしかない。
 間違ったら間違ったで一生懸命謝れば、きっと許してもらえる……かもしれない。
 階段を上がるたびにカンカンカンと地面が鳴る。このマンション中に響いてしまいそうで怖い。
 かかとをあげてゆっくりと歩くことにした。三階までは大した距離ではないのに、顔がぽっぽと火照ってきている。
 私はこの先、生きていけるのかな……なんて思ってしまう。なにせクラスメイトの家に行くだけでこんなに疲れてしまうのだから。



 301号室の表札には『KASAI』と書いてある。
 綾の名字である『葛西』を表しているので、どうやらここが綾の部屋であることは間違いない……と思う。
 けど、もしかしたら『KASAI』さんがこのマンションには一杯いるのかもしれないし。
 インターフォンのボタンを押す指が震える。
 どうか、どうかこの部屋が綾の部屋でありますように。
 ボタンを押すと、こっちに近づく足音が聞こえてくる。あれ、綾ってこんなに早足なんだっけ? もしかして綾じゃないのかな? 
 今考えるとそもそもこのマンション自体があっているかどうかも自信がなくなって来た。
 すぐにマンション名を確認したい気持ちで一杯だった。
 だけど足音がどんどん近づいてくる。どうしょうどうしよう。とりあえず謝ろうか。なんて謝ろう? 綾助けて!

 ドアが開くとそこには女の子が立っていた。
 白いTシャツに黒いジャージのズボン。もしも男の人が着ていたらだらしなく見えてしまうだろうけど、彼女自身はとてもかっこよく見えた。
 彼女はちょっと不機嫌そうに見える。銀縁眼鏡の奥の眼はなんだか怒っているようにも見えた。
「ご、ごめ」
 私の一八番の「ごめんなさい」が思わず口から出ようとした時だった。

 彼女が私に抱きついてきた。

 ふわふわの布団にくるまったような安心感が私を包み込んだ。
 ほろ甘い匂いが鼻孔をくすぐる。
 女の人の匂いだ……私は思わず彼女の胸に顔を埋めてしまう。
 もしかしたら私は世界一の幸せ者なのかもしれない。こんないい匂いに包まれてるなんて。
「遅いから事故にでもあってるのかと思った」
 やっぱり少し怒っているようだった。口調がいつもと違って少し強めだ。
「ごめん。けど事故にはあってない」
「遅いから道に迷って泣いてるのかと思った」
「ごめん。けど道には迷わなかったし、泣いてもいないよ」
「あたしのこと嫌いになって来るのをやめたのかと思った」
「ふぁ」
 ぎゅっ、と私を抱きしめるのでびっくりして変な声が出てしまう。どうしよう。心臓の音が聞こえてしまうかもしれない。
「嫌いになるわけないじゃん」
 私も彼女をぎゅっと抱きしめてやる。
「ひゃっ」
 向こうも変な声を出して来た。もしかしたらこのハグは私達を変な気分にしてしまうのかもしれない。
「けど、よく来たね」
「だって私、綾に会いたかったから」
「昨日学校で会ったばっかりだよ。あたしら」
「会いたいものは会いたかったからしょうがないの」
「そうかもね。あたしも会いたかったよ結衣」
 綾が私の名前を呼んだ。たったそれだけなのに無償に嬉しい。やっぱり私は世界一の幸せ者なのかもしれない。
 綾がおでこを私の額にゆっくりと重ねる。眼鏡と眼鏡がかちゃ、っと音をたてて重なる。
「結衣、汗かいてる」
「ここまで来るのに緊張したから」
「頑張ったんだ」
「頑張った」
「じゃあ、ご褒美あげよっか」
 綾の唇が近づいてくるのがわかった。私は綾に身を任せる……つもりだった。
 だけどできなかった。気づいてしまったのだ。ここがまだ玄関先だと言うことを――。
「……す、すとっぷ。綾」
「どうしたん?」
「どうしたん、じゃなくて、ここ外。人見てる」
「見せつけてやればいいじゃん」
「そんなことしたら間違いなく私は倒れます」
「それは困る。じゃあご褒美はお預けだね」
「うん……ごめんね」
 すると綾は私の手を優しく握る。
「改めまして、我が家へようこそ。結衣」
「……改めまして、お世話になります。綾」
 なんだかお嫁に来たみたいだな、なんて思う。ただ一日泊まりに来ただけなのに……。

     2

「泊まりにこない?」
 綾がそう言って来た時は心臓が止まるかと思った。もしも時が止まることがあるとしたこのことを言うんだろうな。
     

 
 放課後――。
 私と綾は誰もいない保健室に忍び込んで、一つのベッドに二人で横になっていた。
 お互いの髪を撫であい、お互いの鼻をくっつけあい、お互いの手をぎゅっと握った。
 私は綾に会うために学校に来てるし、綾もまた私に会いに学校に来ているのだろう。
 下校のチャイムがなり、保健の先生がやってくる前に保健室から出て行かなければならない。
 綾は毎日私を学校から歩いて五分の駅まで送ってくれる。綾は学校の近くで一人暮らしをしていて、一方の私は県外から片道二時間かけて通っている。
 だから私達が一緒にいられる下校時間はほんの数分だけだった。だからそのぶんお互いの手を強く握りあった。
「もっと一緒にいられればいいのにね」
 私が綾の手をにぎにぎしながら名残惜しむ。
「じゃあ……うちに泊まりにこない?」
 たぶん綾にとっては何気ない一言だったと思う。
 だけど私にとっては雷が頭に落ちてきたんじゃないかってくらい大きな衝撃だった。
 綾の家に……綾と二人っきりで……綾と……。
 考えるだけでも頭がパンクしてしまいそうだ。何でかわからないけど顔が熱い。
 綾と別れて電車に乗ってる最中もずっと顔が熱かった。
 他の人から見たら顔から湯気が出てるんじゃないか……そんなことを思ってしまう。
 それからはどうやって電車を降りたか、どうやって改札を通過したか、どうやって家に帰ったかを全く覚えていない。気がついたらお風呂の中で溺れかけていたのだ。
 どきどきが止まらなかった。いつもより念入りに体を洗った。
 別に次の日に泊まりに行くわけでもないのに。
 別に何をするわけでもないのに。
 そして、あっという間に泊まりに行く当日になり、私は綾の部屋にいる。



 なんだかホテルの部屋みたいだな……と思う。
 きっちりと整理整頓された部屋は全く生活感がない。台所なんて使っていないかのようにピカピカだ。
 本当にここに人が住んでいるのだろうか、それさえも疑ってしまう。
「適当に座って」
 綾は水色の座布団を出してくれた。ふかふかの座布団で少し緊張がとれた気がする。
 もしかしたら綾は人を招きいれるのに慣れているのかもしれない。綾の気遣いが嬉しい反面、なんだか軽い嫉妬心も覚えてしまう。綾が私以外の誰かにも同じように座布団を出しているのだろうか。
 その見えない誰かに私は嫉妬しているのである。
 綾は私の前にちょこんと座る。
 可愛いなー、って思う。なんで座るだけで綾はこんなに可愛いのだろうか。未だに会ったことのない綾のご両親に感謝したい気分だ。
 私達はただ見つめ合った。
 ただ何も言わない。動くこともしない。ただただお互いの目を見つめ合った。
 どうしてだろ。普段は人の目を見ることなんてできない私がこんなにも綾の目を凝視してる。
 しばらくすると、綾は私を見てにやっと悪戯な笑みを浮かべる。
「あー、もうがまんできない」
 そう言い残し、私に抱きついてくる。
「ちょっと綾」
「ん、なんかいい匂いがする。なにか食べた?」
「え、いや、あのコージーコーナーの――」
「……シュークリーム?」
「う――」
 うん、と言おうと思っていた。
 だけど私が「ん」と言う前に綾は私の唇をふさいでいた。
 やわらかいなーって思う。
 気持ちいいなーって思う。
「勝手にそんなに美味しいものを食べた子にはおしおきなんだよ」
 そう言って綾はまた唇を押しつけてくる。
 あれ、さっきはご褒美だって言ってなかったっけ? まあいいや。
 私は綾に全てをゆだねることにした。
 口の中が甘いのはもはやシュークリームのせいじゃないだろう。
 実は綾の分のシュークリームも買ってあるのに。
 それはもうちょっと黙っておこう。 
 もうちょっとだけ綾の匂いに包まれていたいから――。



 外で手をつなぐのはやっぱり恥ずかしい。
 たぶん道行く人達はわざわざ私達のことなんて見ていないだろう。
 それはわかっている。わかっていても恥ずかしい。
 ただその恥ずかしさよりも綾と手をつないでいる嬉しさとか気持ちよさのほうが勝っている。それは間違いなかった。
 私達は言うところの『恋人つなぎ』をしている。この手のつなぎ方を発明した人は天才だと私は思うのだ。
 相手の指と自分の指を一本ずつずらすだけでなんでこんなに幸せな気分になれるのだろう。ノーベル平和賞をあげたいくらいだ。……私にはあげる権限はないけど。

 マンションの近くのスーパーは夕飯の買い物をする客で賑わっていた。
 これだけ賑わっていると私達二人がどんな手のつなぎかたをしているかなんてことは誰も気にしていないだろう。
「ふぇー。すっごい人混みだねー」
 物珍しげな顔をした綾は試食コーナーに群がる買い物客を見渡す。
「だめだよー。それ食べたら夕ご飯が食べられなくなるでしょ?」
「お母さんみたいなことを言うんだね。結衣は……」

 なんでこのスーパーの近所に住んでる綾が物珍しげに当たりを見渡しているのか。
 それは彼女がこのスーパーに初めて来たからだ。
 なぜスーパーに初めて来たのか。
 それは綾が料理を全くしないからだ。
 台所が使っていないかのようにピカピカな理由がわかった。本当に台所を使っていないのだ。普段はファーストフードかコンビニで食事を済ませているらしい。
 それじゃあ体に悪い、ってことで私達二人はスーパーへとやってきたのだ。
「ところで綾は何か食べたいものがある?」
 綾に聞いたつもりだったが、隣には彼女はいなかった。
 独り言をしゃべってしまっている状態がものすごく恥ずかしい。
 しばらく探してやっとのことで、半額のシールをぺたぺた貼っている店員さんを興味津々で見ている綾を呼び止めた。
「いいなー。あのシステム。結衣、スーパーってすごいね!」
 確かにコンビニやファーストフードにはないシステムだろうけどさ。
「そうじゃなくって、何が食べたいかってこと」
「え……と、おいしいものが食べたい」
 定義が広い!
「うーん、じゃあ綾、何が好き?」
「え……結衣が好き」
 胸がぐらっとなる。
 なんでこういうことを真顔でさらっと言ってのけるんだろうかこの子は。
 綾のそういうところが無性に好きだ。
「そう言ってくれるのはすごく嬉しいんだけど、できれば料理の名前で言ってくれると私はすごく助かるんだー」
「うーん、あ、グラタン!」
 えへへーと笑う綾を見ていると私まで嬉しくなってしまう。
 クラスメイトはこの綾の笑顔を見ることはないんだろうなーって思う。
 こんなに無邪気で子どもらしく笑う綾を見ることができるのは今は私だけなのだ。
「じゃあ、グラタンの材料買わなきゃ。綾、小麦粉持ってきてくれない?」
「りょうかいー」
 綾は小麦粉に向かって走り出した。
 その綾の行く方向が洗剤売り場なのは……きっと気のせいだろう。どうやら私が材料を全部かごに入れる必要があるようだった。



 炒めたタマネギのおいしそうな匂いが台所に広がる。もしかしたら綾がこの部屋に住んでから初めてのことではないだろうか。
 なにせフライパンや包丁を始めとした調理器具が一切置いていないのだから。
 100円ショップで安い調理器具をそろえてきて正解だったみたいだ。
 ずっと使うには少し物持ちが悪いかもしれないが、今日一日使う分には100円ショップの調理器具も馬鹿にできない。
 タマネギに小麦粉を入れてさらに炒めたら牛乳を注いで、コンソメと塩、コショウで味をつける。これで即席のホワイトソースのできあがりである。
 そしてこれにゆでたマカロニを和えるわけなのだが……。
「あのー、すいません。いつまでも抱きついたままだと料理できないんですけども」
 帰ってきてからというもの、綾が抱きついて離れないのだ。

 もしかしたら綾は本当に私がいないと駄目なのかもしれない。

 なんてことをタマネギを炒めながら私は思うのだ。
 きっとまだ綾は子どもなんだろう。私の中で綾は妹みたいなものだ。
 元々一人っ子として育った私にとって綾は初めてできた妹なのだ。
 だからずっと私が守っていきたいと思う。
「守っていきたい」というよりは「守らなきゃいけない」と思う。
「なんかすげー良いにおいがする」
「そりゃタマネギを炒めてますから」
「いや、そうじゃなくて結衣がすげー良いにおいがする」
 私の心の中がぐじゃぐじゃしてきた。
 私はこの子大好きだ。なんでもっと早く出会わなかったんだろう。
「シャンプーのにおいがする」
「そりゃシャンプーで洗ってますから」
「そうだ。夕飯食べたらお風呂行こうよ」
「お風呂?」
「うん、スーパー銭湯ってやつ」



 人前で髪の洗いっこをするのはやっぱり恥ずかしい。
 このスーパー銭湯に来ているお客さんは私達のことなんて見ていないだろう。それはわかってる。わかっていても恥ずかしい。
 綾の綺麗な黒髪が白い泡で包まれている。
 その黒髪を見てやっぱり私はため息をついてしまうのだった。
「いいなー。ちょうだいよ。この真っ黒い髪」
「やだ。あげない。シュークリーム五個詰まれてもあげない」
 もしかして一〇個ならちょっと考えるのだろうか。なんてことを一瞬思ったけど聞くのはやめておく。
「けど私、結衣の茶色い髪好きだよ。かっこいいじゃん」
「……そんなにいいもんじゃないよ」
 教師には注意をされ、先輩には目を付けられる。
 そのたびにこれは地毛なんです、ってことを私は説明しなきゃいけない。
 それにしたっていかにも地味そうな私が染めてくるわけないじゃん、なんてことを思っているのだが、向こうは私が地味かどうかなんて知ってるわけがないわけで……。
「いいもんだよ。誰になんと言われようと私は好きー」
 嬉しくなって、綾の頭をぐじゃぐじゃにする。
「うみゃー、やめろー」と綾は叫んでるけどしったこっちゃない。
 だって好きなんだから。
 
     3

 お風呂から帰ってきた後、私達は一つのベッドに潜り込む。
 お互い同じシャンプーとリンスとコンディショナーで髪を洗い、同じボディーソープで体を洗った。
 これで私と綾は同じ匂いになったのだろうか。
 私は綾の首筋に鼻を押しつけてみる。
 私と同じボディーソープの匂いは確かにした。
 だけど、それだけじゃなく、他に優しい匂いがするのだ。優しくてぎゅっと抱きしめたくなるような匂い。たぶんそれは綾自身の匂い。
 抱きしめたい欲求には勝てない。
 私は綾の背中に手を回すと、そのままゆっくりと抱き寄せた。
「……うん」
 綾は小さくささやく。そして私の胸に顔をうずめた。 
 すごく気持ちいい。
 保健室の時とはまるで違った。
 だってもう私達を邪魔するものは何もないんだから。
 野球部のかけ声もブラスバンド部の演奏も下校のチャイムも保健の先生のヒールがカツカツなる足音も、今日は私達を邪魔しない。
 ずっとこのままでいたいと思った。
 だけど、いろいろ気疲れをしたせいだろうか。
 どんどん瞼が重くなってしまう。
 嫌だ嫌だ嫌だ。
 私はもっと綾と一緒にいなければならないのに。
 もっと綾に抱きついてなきゃいけないのに。
 もっと綾の匂いをかいでいなきゃいけないのに。
 睡眠欲なんてものはもういらない。綾がいればどんなに疲れてたっていい。
 ぶっ倒れるのは自分の家に帰ってからでいい。
 だから、今は眠ってる場合じゃないんだ。
 だけど、あまりにも綾と一緒の布団が気持ちよくて、そして綾の匂いが快くて、人の家のはずなのにとても居心地が良くて――。
 もっと昨日寝ておけばよかった。
 十時間ぐらい寝ておけば良かった。二十時間ぐらい寝ておけば良かった。
 そうすればもっと綾と一緒にいられるのに――。



「結衣はなんでママの言うことが聞けないの?」
 ゴメンナサイ。
「結衣はなんでこんなことも我慢できないの?」
 ゴメンナサイ。
「結衣はなんでそんな目でママを見るの?」
 ゴメンナサイ。
「ねえ、結衣はなんで先生の前でお着替えをしちゃったの? 言ったわよね。必ず着替える時はトイレに行ってしなさいって。そしてもしもそのアザのことを聞かれたらなんて言う約束だったっけ」
 コレハ階段カラ転ンダノデス。オ医者サンガスグニ治ルッテイッテマシタ。
「そう先生に言わなかったでしょ」
 ゴメンナサイ。
「ママね。先生に怒られちゃったんだー。誰かのせいで」
 ゴメンナサイ。
「お仕置きしてもわからない子ってどんな子だっけ?」
 ゴメンナサイ。
「駄目な子っていうんだよ。結衣は駄目な子なんだよ」
 ハイ、ワタシハダメナコデス。

 私は自分の部屋の隅っこで座っている。
 私の部屋には冷房がない。
 エアコンはあるにはあるけどコンセントが抜かれている。そして部屋全体はブレーカーが落とされている。
 部屋の窓には鍵がかかっている。
 そしてその窓の上には何重にも黒いガムテープが貼られていた。
 黒は太陽の熱をより吸収する。私はそのことを生まれながらにして知っていた。
 ムシムシしていた。
 吸う息が熱かった。
 体全体がべとべとしている。
 腕のあたりに白い斑点模様が浮かぶ。舐めてみたら辛かった。どうやら私の体は辛いんだ。
 喉がすごく重たい。
 つばを飲み込むと痛いのはわかっているので、口から出てくる唾を私は服の袖で拭う。だから袖はいつもかぴかぴしていた。
 私はずっと座っている。動くと倒れちゃうから。
 息を潜めていると、母親の足音が聞こえてくる。
 私は目に力を入れ始める。
 母親が外側からドアの鍵を開けた。私の部屋は内側から鍵がかけられない。きっと子どもの部屋ってみんなそうなってるんだ。学校のクラスメイトもきっとみんな部屋から出る時には自分の母親から鍵をあけてもらってるんだ。子どもはみんな大変なんだな。
 ドアが開くと冷たい空気が廊下から流れてくる。
 ああ、なんて世の中にはこんなに涼しい風か吹いてるんだ。涼しい風と共に現れた母親は私を見てにっこりと微笑む。
 今だ。
 私は目から涙を一粒落とす。熱気がこもったカーペットにその粒が落ちる。
 本当にこの粒は涙なのだろうか。
 涙って言うのは、悲しい時、寂しい時、そしてものすごく嬉しい時に出るものではないのか。
 だけどこの粒は私の感情とは関係なくぽろぽろと流れる。
 汗がなるべく出ないようにして、おしっこを我慢すれば簡単にこの粒は目からこぼれ落ちる。
 どうやら母親はこの粒が大好きなのだろう。
 私がこの粒をぽろぽろ流して母親の顔を見ると、さっきの笑顔とは比べものにならないくらい嬉しそうな笑みを浮かべるのだ。
 嬉しそうな笑みを浮かべる時、母親は深い笑いじわができる。

 私は無性にそのしわが怖い。

 そのしわがあまりにも怖くてまたぽろぽろと粒が落ちる。
 こっちは涙なのかもしれない。
 私は母親の深い深い笑いじわに落ちていってしまう気がした。
 涙が止まらなくなる。
 カーペットは粒と涙でびっしょりになる。
 そのびっしょりしたカーペットを見て、また笑いじわは深くなる――。



 目が覚めた頃には遅かった。
 目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちている。
 これは粒じゃなくて涙だ。なぜなら私はまだ母親に対しての恐怖を忘れていないからだ。

 もう私の目の前にはあの母親はいない。
 当時の学校の先生が単身赴任中の父親に連絡をとってくれたおかげで、私はあの母親から離れることができた。
 今は父方の祖父母に守られて暮らしているから、あの頃の自分の部屋のことは忘れつつある。
 だけど、やっぱり完全には忘れさせてくれないらしい。
 今でも母親の笑いじわは私の夢の中にやってくるのだ。
 この夢から覚めたときは怖くて仕方がない。
 気がついていたら泣いていて、いつも祖父母の部屋に布団を持っていて一緒に寝てもらうくらいだ。
 アパートも借りずに実家から二時間かけて学校に通っているのもそのせいなのだ。
 一人でいることが怖くてたまらない。
 もしも祖父母がいなくなったら……ということを考えると震えが止まらないのである。
 
 だけど今日は違った。

 泣いている私を優しく包むように抱きしめてくれる綾の存在があった。
 綾はゆっくりと優しく私の頭をなでてくれている。
 こんなにも温かい気持ちは初めてかもしれない。
「ご……めっ」
「大丈夫だよ。結衣」
 母親のことは誰にも言ってはいない。もちろん綾にも――。
 もしかしたら泣きわめいてしまったかもしれない。
 震えが止まらなかったのかもしれない。
 だけど綾は何も言わずに私を抱きしめ、頭をなでてくれている。
 もしも私にお姉ちゃんがいたらこんな感じなのかな、って思う。
 いつもは私が綾のお姉ちゃん代わりだったはずなのに。

もしかしたら綾は本当に私がいないと駄目なのかもしれない

 一瞬でもそう思った自分が恥ずかしい。
 もしかしたら――いや、もしかしなくても、私のほうが綾がいないと駄目なのだ。
 綾のモコモコのパジャマに私の涙が染みこんでいく。
 パジャマをそっと噛んでみる。やっぱりしょっぱい。
 でも今まで流した粒や涙とは違う味がした。
 初めて知った。
 嬉しい時にも涙は流れるのだ。



「ここでいいの?」
 玄関先、綾が私のことを心配そうに見つめる。
 心配するのも当然かもしれない。昨日あれだけ彼女の胸で泣きじゃくってしまったのだから。
「うん、お世話になりました」
「駅まで送っていくのに」
「その気持ちだけありがたく受け取っておく」
「わ、なんだかその言葉かっこいい。今度使っても良い?」
「いいけど、たぶん使う機会はそうはこないと思うよ」
「その気持ちだけありがたく受け取っておく」
「あー、無理矢理使っちゃうんだー」
 そんなしょうもない会話で私達は笑う。
「またおいでね」
 綾はそっと手を差し出す。
「うん、また来る」
 私は彼女の手をそっとつかむ。指を絡めてぎゅっと握った。
 いつまですべすべな彼女の指を堪能していたいのはやまやまだったが、ずっとこんなことをしていたらいつまでたっても私は帰れない。 
 そっと手を離すと綾は名残惜しそうにこっちを見た。
「ばいばい」
「ばーい」
 ゆっくり手を振ると私はマンションの階段を下りる。
 振り返らないようにいそいで階段を下りる。また綾の顔をみたらまた泣いちゃいそうだから。
「おはよっす」
 階段を下りてすぐ、ぺこっとお辞儀をされる。昨日の大学生さんだった。
「おはようございます」
 私は笑って彼に挨拶を返す。すると彼もすこし微笑んで昨日と同じ自転車でどこかへ言ってしまった。
 もう変な緊張や胸の高鳴りはなかった。

 私は早く家に帰りたいという気分で一杯だった。決してすぐにここから離れたいというわけではない。
 ただ早く自分の家で横になりたいと思ったのだ。
 そして早めに眠ってしまおう。
 もう、怖い夢を見ることはないと思うから。(了)
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