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     B

 春、四月。
 この学校は、校門から校舎までが桜並木道になっており、この季節の早朝はたくさんの桜の花びらが生徒とともに校舎へと舞い込んでくる。
 僕はそんな情景を保健室の窓越しに眺めているのだが、いくらめてもこればっかりは飽きることがない。もう何年この光景を見ているのかということはもうわからないが毎年毎年この光景は楽しみの一つである。やっぱり自分は日本人なんだなって思う。いや、日本「人」ではないか。
 さて春と言えば、この保健室もあわただしくなる。
 まずは新入生が学校の施設案内として部屋中が生徒で芋洗い状態になるし、それが終わったと思ったら今度は全校の身体測定を始めとした健康診断が待ちかまえている。
 こればっかりは普段のほほんとしている塙先生も機敏な動きをみせる。
 そのくらい忙しい。とにかく忙しい。僕が手伝ってやりたいくらい忙しい。
 だけど手伝うどころか応援もろくにできないので、わりきって僕はひたすら桜を見ることにしている。
 というのも健康診断の時はいろいろと目のやり場に困ることが多々あるのだ。
 身体測定にしても内科検診にしても生徒の着替えというのはやはり避けては通れないものらしい。
 別に僕が女子生徒の着替えをまじまじと見ていたところで何もならないのだが、やはり僕も一応男であるらしく恥ずかしいものはどうしても恥ずかしいのだ。
 そして僕は別にガチムチとかそういうものには興味がないので男子の着替えも見ることはない。
 というより見たくない。だったら桜でも見ていた方がましというものである。
 どっちにしろぼーっと桜を見ながら過ごすというのが春のお決まりになっているのだ。
 今年もたくさんの生徒がこの保健室にやってくるのだが、やはり僕のことが見える子はいないらしい。
 僕の方を見て首を傾げつつなんとなく気配を感じている子は希にいるのだが、用事がすむと何もなかったかのように保健室を後にしてしまう。
 もっと希に僕の姿が見えて僕と普通に会話できる生徒もいる。
 だがこのような例は何百人、下手したらもう千人以上の生徒を見てきたがその中でもたった一人しかいない。
 今日もたったったっと廊下を走る音が聞こえてくる。
 何度注意してもこれだ。廊下は走っちゃいけないなんて小学一年生でも知ってるぞ?
 近づいてきた足音はそのままドアを勢いよく開く音へと変わる。
 今日も彼女がやってきたようだ。
「やあ、シーナくん、おはよーくしゃーてりあ!」
「おはよう、ってもうお昼すぎだけどまふゆさん。あと断言しておくけどその挨拶は絶対に流行らないからね!」
「なんで! 流行るよ! ヨークシャーテリア超かわいいじゃん! マクドナルドのキャラクター達ぐらいかわいいじゃん!」
 比較対照が明らかにおかしい! あと僕はあのキャラクター達をかわいいと思ったことは一度もない!
「流行語大賞どころの話じゃないよシーナくん! バーコードバトラーぐらい流行るよ!」
 平成生まれには伝わらないブームを例に出すんじゃありません!
「まあいいや。先生は?」
「いないよ? なんか研修会があるとか」
「そうか。じゃあふたりっきりだねシーナくん」
 にゃはは、と笑うまふゆさん。口元には八重歯を覗かせている。
「別に。それいつものことじゃん」
「なんだよー。ロマンもへったくれもないのかよー。国民にあやまれっ!」
 そこまでのことだった? 
 国民のみなさん、ごめんなさい。僕は悪くないけど。
「んじゃあ、宿題でもやるかー。お茶がないとやる気でないけどー」
 そう言うとまふゆさんは教卓に教科書やノートと言った勉強道具一式を広げる。
 まったくいつもの光景だった。もしも塙先生がいたとしたらあつあつの紅茶をだしてくれているところだけど。
「ねえねえシーナくん」
「何?」
「何でもない……きゃは! 今のカップルみたいに見えない?」
「見えないからさっさと宿題しなさい」
「むー。シーナくんのばーか。ばかばかシーナくん。ばかシーナくんばか」
 頬をぷくっとふくらませている彼女こそ、僕と唯一会話ができる生徒、福沢まふゆなのだ。
 彼女にいきなり話しかけられたときは本当にびっくりしたのを今でも覚えている。
 というのも今まで保健室に来た生徒の中で僕のことが見える人に初めて会ったからである。彼女は僕を気味悪がったりしなかった。僕の元から去ろうともしなかった。そして僕のことを誰にも言わなかった。
 ただ保健室にやってきては僕とたわいもない会話を交わす。まるでただの友達のような感覚で――。

 僕はまふゆさんの勉強の邪魔をしちゃいけないと再び一人花見を開始していた。
 一時間ぐらい見ていただろうか。ふと、振り返ってまふゆさんの様子を伺う。教卓に座ったまふゆさんは頭を前後に揺らして眠気と格闘していた。
 まあしょうがないよね。春だもん。
 そう思って再び外へと視線を移そうとしたとき、まふゆさんの異変に気づいた。
 見るからに顔色がよくないのだ。
 彼女特有のうさぎのように白い肌がくすんでしまっている。そして目元にはうっすらと青黒いクマが浮かんでいる。
 船を漕いでいたまふゆさんは僕の目線に気づいたのかぱちっと目を開く。
「はっ私寝てた?」
「寝てはいないけど……まふゆさん疲れてるでしょ?」
「そんなことないよ。……あっ。んなーこたあない!」
 なんでわざわざタモリ風に言い直したのか、ということだけでいいから僕に教えてくれないだろうか。
「まふゆさん。宿題はいいからとりあえず横になったら?」
「横になるってどこに……ここ学校」
「ここはその学校の中にある保健室だよ。ベッドくらいあるっての」
「あっそうか。そういえばベッドという文明の利器がこの保健室にはあるんだ。さすがここの保健室は設備がしっかりしてるね」
 いや、保健室に最低限あるものだろベッドって。
「んじゃあ、失礼して寝させていただきます」
「どうぞどうぞ」
「その間宿題やっておいてくれると私は死ぬほど喜ぶ」
「死んでほしくないから僕はあえて宿題はやりません。本当にありがとうございます」
「けち」
 まふゆさんはそう言い残すと、ベッドに移動してしゃあっとカーテンを閉めた。
 僕はまた視線を外の桜並木に移そうと思ったがさすがに少しだけ飽きたので、さきほどまでまふゆさんが座っていた教卓に目を向けた。
 机に広げてあるノートに僕は目を落とすとそこに書いてあったのは数式でもなく年表でもなかった。
 ただいろんなキャラクターの絵、すなわち落書きしか書いてなかったのだ。
 さっきの発言の触発されたのかマクドナルドのキャラクターがノートの中ところせましと描かれている。
 なんだ。一生懸命机に向かっていると思ってたのに……絵だけで文章がひとつも――。と僕がノートを見やると一文だけ文章が書かれているのを発見した。

 なじみたい

 ただ一言。そう書いてあった。
 それはどうやら消しゴムで消された後に上書きされたようで、消された筆跡が僕に読みとれる程度に残されていた。

 なじめない

 彼女はこの文の「めな」の部分を消して「みた」を付け足している。「なじめない」「なじめない」そこからは今の彼女の現状が現れていた。

     ***

 僕の前ではあれだけ明るい福沢まふゆだが素の彼女は決して社交的なわけではない。それがわかるまでは決して時間はかからなかった。
 それは去年、彼女のクラスが身体測定に訪れた時のことであった。
 僕は人目で彼女を見つけることができた。初めて僕に話しかけてくれた女子生徒だ。彼女の外見を忘れるということが無理な話だった。
 初めて彼女が僕に話しかけてくれたとき、彼女はうれしそうにいろんな話をしてくれた。
 自分がこの学校に合格するために必死で勉強したこと。
 自分のクラスの担任が男の先生でなかなかイケメンだが彼はもう結婚しているということ。読書が好きなこと。家にいるときはパソコン漬けになっているということ。
 そして本当は自分は極度の人見知りであること。そして極度の口べたであること。
 そしていままで友達と呼べる存在がいなかったこと。だから高校では頑張って友達を作ろうと思っていること。
 とても明るく彼女は僕に話してくれた。
 人見知りで口べたなんてことが嘘だと思えるくらい彼女は僕に心を開いてくれていた。 だから僕はこの子が友達をつくることはそう時間がかからないだろうなと思ったのだ。
 しかし、身体測定で再び保健室に訪れた彼女はあの時の彼女とは明らかに違っていた。
 出席番号順に並べられたクラスの女子の中で彼女は唯一誰ともしゃべっていなかった。
 ただ下を向いて前の出席番号の女子生徒の後についていっていた。
 そしてそのほかの女子のグループの中で笑いがおきるたびに彼女はおびえたようにびくっと震えるのだ。
 その様子は明らかにクラスの列からは浮いており、女子の何人かは彼女を見てクスクス笑った。そしてそれに対して彼女はますますうつむいてしまうのだ。
 彼女は僕に気づくと僕の目をじっと見た。それはまるで何かを切望するような目だった。
「見ないで」彼女は無言でそう訴えていた。
 それは決して身体測定の結果を見られたくないわけじゃない。
 身体測定で半袖、ハーフパンツの自分を見られたくないわけじゃない。
 今の自分。クラスの中での自分を見られたくない。そんな目で僕を見ているのである。
 そこで僕は彼女を背にして窓越しに桜を見始めた。僕が桜をぼーっと見ている間に彼女のクラスの身体測定は終わり、保健室には塙先生と僕だけが残っていた。
 それから数日間彼女は保健室に姿を表さなかった。
 もう彼女は来ないのかと思った。
 だけどあれからふと彼女は保健室にやってきた。
 そして何事もなかったかのように僕とたわいもない話をしていた。その時の彼女はやっぱり顔色が悪く、クマが浮かんでいたのだ。

     ***

 ベッドから小さな寝息が聞こえてくる。
 かわいらしく、そして気持ちよさそうな寝息だった。
 僕はカーテンの隙間からこっそりと彼女を覗いてみる。こころなしか顔色がよくなっているようなので少しほっとする。
 彼女のひたいが少し赤くなっているのが感じた。
 何かに押しつけられたように見える。去年の今頃も彼女の額はうっすら赤かった。
 これは後にわかったのだが机に突っ伏して眠るとその後が額についてしまうらしいのだ。これは僕にぽろっとこぼしたことだ。
 寝ているフリをしていれば誰ともしゃべらなくてすむ――と。
 きっと彼女は休み時間のたびに机に突っ伏しているのだろう。クラスの視線に怯えながら――。

「休み時間も来ればいいじゃん」
 去年の今頃、僕は彼女にこう言ったのを覚えている。
「僕も退屈なんだよ。話し相手がいないともう寂しくて寂しくて」
 半分は本当だが半分は嘘だった。
 けどこれを期に彼女がクラスの視線を気にしながら寝るフリをすることもなくなっていたのである。
 すると彼女の顔色はよくなり、クマもなくなった。
 だけど僕はこの時は考えても見なかったのだ。また次の年も同じ状態になってしまうということを。
 たぶん彼女は努力したのだ。
 クラスに馴染もうと、視線を怖がらないようにしようと、そして友達を作ろうと――。
 そして、この時期の休み時間にたくさんの生徒がいることを彼女は知っていた。人がいる前では僕と話せないし、他の学年からの視線が彼女は怖いのだろう。
 その無理が今になって出ているのだ。彼女の無理は自分自身をいじめているのだ。そして落ち着いてきたいまやっとこの保健室に彼女はただりついたのである。

「……シーナくん?」
 しゃあっ、とカーテンを開けてまふゆさんが僕を探す。
「起きた? おはようございます」
「おはようございます」
 彼女はぺっこりとお辞儀をしたので僕もぺこっとお辞儀を返す。
「寝れた?」
「うん、やすらかな眠りでした」
 まふゆさん、それちょっと意味違ってくるから。
「シーナくん私が寝ている間に何してたの? まさか私の寝顔を盗み見してたのかな?」
「そ、そんなことするわけないでしょ」
 思いっきり図星だったので軽く噛んでしまった。なんでこういうところだけ鋭いのかな? 女の人の勘ってやつなのだろうか。
「あやしいなあ」
「あやしくないあやしくない。だってずっと僕は桜並木を見てたんだから」
「あー、ずるいー、いいなー」
「ずるくはないよ。まふゆさんも見ればいいじゃない」
「うん、見るー」
 そう言うとまふゆさんは僕の横に来たと思ったら僕を囲むように窓の敷居に手をおいた。
「やっぱり、きれいだね」
 無邪気な様子で桜を見ているまふゆさんはやっぱりあどけなさが残っていた。
 いつも強がりをみせているがまだやっぱり子供なのかもしれない。
「ねーねー、シーナくん」
 まふゆさんに呼ばれて我にかえる。
「お花見しようよ。シーナくん」
「花見? してるじゃん現に」
「シーナくん、昔の偉い人はいいました。花より団子……と」
 その台詞を本当に偉い人が言ったかどうかは甚だ疑問である。
「というわけでちょっとシーナくんお留守番しててね」
「どこ行くの?」
「ちょっとそこまでだよ。じゃ、行ってきまーす」
 まふゆさんはカーディガンを上に羽織ると颯爽と保健室を出て言ってしまった。
 毎度思うのだが、僕を一人残したところで留守番はできてないよね。泥棒とか入ってきたところで僕は何にもできないしさ。
 
 まふゆさんがスーパーの袋を片手に帰ってきたのはそれから十分後のことだった。
「買ってきたよ。シーナくん」
「そんなに息をきらして何を買ってきたわけ?」
 まふゆさんはじゃんじゃじゃーん、と言って取り出したのは二つの細長い缶である。
「何それ?」
「何それ? じゃないよ! シーナくん。お花見につきものなものは何でしょう?」
「え……お団子?」
「それもそうだけど……ほらもっと他に」
「ブルーシートとか?」
「そうじゃなくって飲み物とかそういうもので」
「えっと……あっわかった。ミロだね」
「……シーナくんわざと言ってるでしょ! 花見でミロ飲む人聞いたことないよ! ラモスに謝れよ!」
 ラモスさんごめんなさい。
 ……っていうか花見でミロ飲む人だっているだろう。僕は知らないけど。
 けどまふゆさんをからかっているのは事実だった。彼女の必死な顔とかすねた時の顔とか……見ているだけでついなごんでしまう。
「花見と言えば甘酒だよ。シーナくん!」
 まふゆさんはこれが目に入らんのか! といわんばかりに缶を僕にみせつけた。
 確かに赤いパッケージに白く「甘酒」と書かれている。甘酒って缶で売ってるのか。初めて知った。
 まあだからと言って買う機会はこれから一切ないわけなのだが。
「はい、シーナくんの分ここにおいておくね」
 そう言ってまふゆさんは窓際に缶をおいてくれる。
 暖かいようで窓がうっすら白く曇っている。
 まふゆさんが飲めもしないのに僕の分まで買ってきてくれたのが死ぬほどうれしかった。まあ、死ぬほどってもう既に死んでいるのだけど。
 ついつい頭をなでたくなる。だけどそれができないことを思いだし出した右手をそっと元に戻した。
 彼女の頭をなでられたらどんなにいいだろうと考えることがある。
 あのつやつやでさらさらの黒髪が自分の指をするりと抜けていく感じ。
 想像しただけでとても気持ちよさそうだが、実現できないと思うとこんなことを想像するだけでなんだか寂しくなってくる。寂しさを越えて悲しみがわき出てくるくらいだ。
「じゃあ、飲むよ。かんぱーい」
 まふゆさんは僕に向かって甘酒を掲げて乾杯の姿勢をとった。
 そして甘酒をいきおいよく飲み始めた。

     ***

「ひ! ひぃいなくんは! 私のついだ酒が! のめぬあいってのか! ばかやろーーーー!」
 今、保健室には幽霊一人と酔っぱらいが一人。なんともカオスな状態になっている。
「っていうかなんで甘酒で酔っぱらってるの? この人」
「ひゃああああ? だーれが? よっぱらってるだあ! おまえは自分にでもお、酔ってろおぅ!」
 酔っぱらいのお手本みたいな酔っぱらい方をしているまふゆさん。
 確かに缶を見てみると「運転をする方は飲むのをお控えください」と書いてある。ということはごく少量ながらもアルコールは入ってるみたいだ。
 だとしてもここまで酔っぱらうかな。甘酒会社の人も想定外のことだろう。
「ひぃいいいいなくうううん」
 何を言ってるかわからないがどうにか僕を呼んでいるんだなってことぐらいはわかる。
「ひぃいいなくん。私のような大人になっちゃだめだぞおおお」
 うん、わかった。まふゆさんみたいな大人にはなれない。まふゆさんは大人じゃないし、僕もこの先大人にはなれないから。
「ひぃいなひゅううう」
 もはや日本語かどうかも僕を呼んでいるのかさえわからない。誰か僕に翻訳コンニャクを!
「ひいなくん。ひいなくん」
 また僕のことを呼んでいるということは理解した。翻訳コンニャクがなくてもどうにかなるもんだな。
「ひいなくん、ばーかっ!」
 彼女はあはっと意地悪な笑顔を浮かべた。どうやら、まふゆさんは笑い上戸らしい。
「まふゆさん。ばかっていったほうがばかなんだよ」
「いいんだよー。ばかばかひいなくんなんだよー。ばかばかひーなくん三世なんだよー」
 勝手に人の名前に貴族要素をプラスするのはやめてほしい。
「ひーなくん」
「何? もういい加減に怒るよ僕だって」

「すきー」

 無邪気だった。
 彼女の幼さのすべてをぶつけてきたかのような無邪気な顔で彼女は微笑む。
「ひーなくん。すきぃ」
 どうリアクションしていいかわからなかった。
 よっぱれって彼女が叫んでいる内容と「好き」という二文字が重なった瞬間、僕は思わずぼーっとしてしまう。
 夢の中にいるようだった。胸の中がもやもやする。
 気持ちいいのか、それとも気持ちが悪いのか、もはやそれすらわからない。
「すきぃ、えーと。すきい」
「……うん」
 ただ頷くことだけにこれだけのエネルギーを使ったことはたぶん初めてだと思う。
 今僕はどんな顔をしているだろう。
 見てみたい気もするし、見たくない気もする。
 ものすごくだらしない表情を浮かべている気もするし、何も変わらない表情を浮かべている気もする。
「ひいなくん、すきい。うーんとね。あのね。ふらいぱんと同じくらいすきぃ」
 フライパンと同率順位に並べられたところでふと正気に戻る。
 そういや、まふゆさんは酔ってるんだっけ。いまさらだがそんなことを思い出すのだ。
「すきすきすき……ひいなくんだいすきぃ」
「はいはい、ありがとね」
 僕がそういうと、まふゆさんは「えへー」と今日一番の笑顔を僕に見せてくれた。
 この笑顔にきっと嘘はないんだろうなと思う。
 言ってることは嘘かもしれないけど……。もしも、彼女が酔いから覚めてもこのことは黙ってようと思う。この笑顔は僕だけのものにしておきたいから――。 
 
 寝息が聞こえる。
 それはすっー、すぅーと優しく僕の耳をかすめていく。
 あれからまふゆさんはしばらくの間、ただの飲んだくれと化していた。
 本当に誰もこなくてよかったと思う。保健室出一人酔っぱらっているのだ。こんなところを見られたらきっとまふゆさんはお嫁に行けない。
 そんな飲んだ暮れも酔うとすぐ眠くなるらしく、ソファーベッドに突っ伏したまま寝てしまったのだった。
 寝るんだったらちゃんとベッドに横になれば――という僕の言葉は耳に入らないようで地べたにぺたんと正座した状態で寝息をたてているまふゆさんはなんとも無防備な状態である。
「まふゆさん。見えるよ。パンツ」
 返事はない。
「まふゆさん。見えてるよ。パンツ」
 やはり返事はない。
 もちろんパンツが見えてるというのは嘘だが、彼女の真っ白な太ももが露わになっているこの状態はどう見てもよろしくない。
 やっぱりここでも僕は彼女に何もしてあげられないのであった。
 まふゆさんをベッドに横にさせることもできないどころか毛布の一枚すらかけてあげることができない。
 外は暗くなりかけていた。
 冬ほどは日は長くなったものの、やっぱりまだ日が沈むのは早い。
 ずっと見ていた桜もだんだん見えにくくなってきている。
 僕は感じることができないがおそらくこの部屋の室温も下がって来ているのだろう。
 誰でもいいから来てくれ。僕はそんなことを祈りつつ保健室のドアを見つめる。
 このままではまふゆさんが風邪を引いてしまう。そうしたら僕は――。僕は……。
 僕はどうすると言うのだろう。
 まふゆさんは高校生なのだ。ずっとこの学校にいるわけはなく、いつか卒業してしまう。
 そうしたらここには――もう二度と――。
 
 カッカッカとヒールが床に当たる音が聞こえてくる。どうやら塙先生が戻ってきたようだ。どうやら僕の祈りが通じたらしい。
「まふゆ……ちゃん?」
 塙先生は入ってくるなり、寝息を立てているまふゆさんに気づいたようだ。先生は何も言わず、まふゆさんの元にかがむ。
「風邪ひいちゃうよ?」
 先生はまふゆさんの頭をなでる。
 先生綺麗な指をさらさらな黒髪が絡み、そしてするりとすべっていく。
「まーふーゆーちゃん」
「ん」
 先生の声に気づいたようでまふゆさんはうっすらと目を開く。
「せんせ……」
「うん。先生だよ?」
「せ、んせ……」
 まふゆさんの目には再び涙が溜まっていた。
 それもさっきよりもたくさんの涙が――。まふゆさんの嗚咽が保健室中に響く。塙先生はそんなまふゆさんを優しく包み込んだ。
「うんうん。大丈夫だかんね。辛かったね」
「そ、そん、なじゃなくて……」
「うんうん、わかってるよー。まふゆちゃんは頑張りやさんだからね」
「ご……ごめ」
「ううん。なーんにもあやまらなくていいんだよー」
 まるで自分の子供をあやすみたいな優しい口調で塙先生は語りかける。
 するとそれに安心したのか身もだえしていたまふゆさんがだんだんと落ち着いていくように見えた。
 とん、とん、と背中を優しくたたく先生の姿は母親そのものだった。その姿を見ているこっちも優しい気持ちになってくるようだ。
「せんせ……もっとこうしてて」
「うん、ずっとこうしててあげる。だから安心していいんだよ?」
「う……ん」
 いっそのこと時間を止めてやりたい。
 先生の胸元で体を振るわせているまふゆさん、そして彼女をつ包み込む先生を見てそんなことを僕は思う。
 まふゆさんのすすり泣く声が聞こえる。僕は二人に背を向けて窓越しに外を眺める。
 もう外は暗くて桜はよく見えなかった。
 だけど今日はずっと外を眺めていようと僕は思った。



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