×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。




秋とビールと魔法少女

喉がからからになって目が覚めた。もう九月とは言えまだ涼しくなるには早いようだ。
 僕は起き上がって、おもむろに冷蔵庫を開ける。
 何もなかった。
 普通、「冷蔵庫に何もない」という状態は、少なからず何かしらのものが入っているものだ。
 卵が一個あれば万々歳。
 中途半端に残ったタマネギやらキャベツやらが転がっていれば上出来。
 最低でも弁当についてきたけど使わなかった醤油だとか、持ち帰えり用の寿司についてきたけど結局食べなかったガリだとか、そんなものがいかにもすまなそうに置いてあるものなのだが、今回の場合は違う。
 本当に何もないのだ。
 買ったばかりの時と全く同じ状態。
 唯一違う点があるとすれば、飛び散ったキムチの汁やら醤油やらで軽く芸術的なデザインがついているぐらいのものだ。
 何もないということは、この病的な喉の渇きを癒やしてくれるものが一切ないということになる。
 ひょっとするとこれは命に関わるかもしれない。
 熱中症で命を落とす人が珍しくない昨今、これは決して大げさな表現ではない。
 僕は意を決して水道の蛇口をひねる。
 じゃあっ、とあまり勢いが強いとは言えない水を手ですくい、口元へと運ぶ。
 ぬるい液体が喉を通るのがわかった。
 まずい。もう……いらない。

 アパートの水は壊滅的に不味い。
 最近は、都心でも美味しい水が飲める、という話を聞く。
 それは本当かもしれない。けど都心で美味しい水が飲めるからと言って、日本の全ての地域で美味しい水が飲めるかというとそうではないらしい。
 実際、この水道の水は美味しくないのだから。
 なんだか釈然としないが、これが現実ならば受け入れるしかない。
 ただでさえ家賃の相場が安いこの土地の中でも安いボロアパートを選んだのはこの僕なのだから。
 けどこのぬるまずの水でも喉は潤せる。
 やっぱり水って偉大だな、と思う。
 けどもし、今度引っ越すことがあったら水が美味しいところにしよう。そう心に誓いながらも僕はぬるまずの水を喉に押し込む。
 だけど引っ越しなんていつになるだろう。
 少なくとも大学四年間はこのアパートで過ごすことになるのだ。
 そうなると次は就職する時か。はたまた結婚する時か。
 結婚。
 この響きに僕はどきっとしてしまう。
 今年、僕は二十歳になった。
 アルコールも飲めるし、たばこも吸える。選挙に投票もできる。
 そして、親の承諾なしに結婚することができる。
 二十歳になったということは未成年から成人になったということである。
 だけど成人になったからと言って僕は何をすればいいんだろか。
 一九歳から二十歳になったからと言って何かが急激に変わるわけがない。
 まだ僕自身は子どもなのだ。
 身長も体重も中学生のころからあまり変わらずにここまで来てしまった僕は、たぶん心も中学生のままなんだろう。
 きっと成長するための燃料を置いてきてしまったんだろう。
 だから、未だに人と話すことはおろか、目を合わせることもできないんだ。
 そう人とは――。

「どうしたの? 朝から難しい顔して」
 一人暮らしのボロアパートにそぐわない柔らかくて優しい声が聞こえる。
「いや、別に。あ、そうだ。おはようございます」
「あ、どうも。こちらこそおはようございます」
 僕は声の主に頭を下げる。
 すると向こうもぺこっと頭を下げてきた。
 そして、僕らはお互いの顔を見つめる。彼女の薄青くすんだ瞳は思わず吸い込まれそうになるほど美しいものだった。
 僕は、人と話すこと、目を合わせることはできない。
 でも彼女とはこうやって、会話を交わして目を合わせることができる。
 なぜか――。
 それは彼女が魔法少女だからであり、僕は彼女の魔法にかかっているからだ。

 長い夏休みが終わって早いもので一週間が過ぎた。
 バイトもサークルも資格の勉強もしていない僕は完全に夏休みを持てあましていた。
 無駄に一日に五回くらい寝てみたり、無駄に一二時間ぐらいぶっ続けでラジオを聞いたり、無駄に五本連続で映画のDVDを見たりしていた。
 それでも時間があまるのだから夏休みというのは恐ろしい。
 僕が暇を持てあましている時もクラスメイトであり、魔法少女でもある高峰千里は僕のアパートにたびたびやってきていた。
 そして学校が始まって最初の土日。夏休みの習慣が抜けていないのか、彼女は僕の部屋にやってきていた。
 僕のアパートに来て何をする――というわけではない。
 まず、部屋に入るなりごろーんと寝っ転がると持ってきた文庫をおもむろに読み始める。
 喉が渇いたら勝手に紅茶を淹れる。
 もはや彼女専用となった魚へんの漢字が一杯書いてある湯飲みに紅茶を注ぐとそれをゆっくり飲みながら文庫本との対決を再開する。
 お腹が減ったら、勝手に冷蔵庫を開けて、適当にもしゃもしゃと食事をする。
 冷蔵庫が空っぽになるのはこういうわけだ。
 もっとも元々冷蔵庫にはろくなものを入れていないので、彼女が僕の食料を食べ尽くしてしまっているわけではない。
 というより僕が食が細い上にあまり、食べ物の興味がないという部分も大きい。
 僕はよく食事を忘れる。
 気がつくと丸一日何も食べてないということもざらである。
 だけど、彼女は食べ物を一杯食べる。
 どうやら魔法を使うにはエネルギーがたくさん必要に違いない。
 しかし、僕の冷蔵庫にはとにかく食べ物が入っていない。
 それこそピークの状態で卵一個とか使いかけのキャベツやタマネギしか入っていないのだ。
 ここにいる魔法少女は食事には魔法を使わない。
 狭い台所の切れない包丁や小さいまな板で器用に料理を作る。キャベツとタマネギと卵で美味しい卵とじスープを作る。
 そのスープはとっても美味しく、これも一種の魔法なんじゃないかと思うくらい。
 そのスープを作ったのが昨日の話だから、買い物に行っていない今日は冷蔵庫が空っぽなのは必然的なものだった。
「お腹すいた?」
 僕は魔法少女に聞いてみる。
「お腹がすいて目が覚めた」
 魔法少女は小さなお腹をさすって「お腹がぺこぺこです」というアピールをした。
 お腹が減っては魔法を使えない。
 それは困る。
 僕が彼女と話したり、目を合わせたりできなくなってしまうじゃないか。
 時計を見ると午前九時になるところだった。ちょうど近くのスーパーが開店する時間だ。
「スーパーに朝食を買いに行きませんか?」
「何? それナンパ?」
 生まれてこの方ナンパとは無塩な人生を送っているからよくわからないが、そんなナンパのする人はいないんじゃないだろうか。
 というよりナンパって朝の九時から行うものなんだろうか。
 けどなんとなくだが健康には良さそうな気がする。
『ナンパ健康法』っていう本とか出てたり……はしないな。おそらく。
「そうそう。ナンパなんだ。実は」
「そう? じゃあナンパされるからスーパーに連れて行ってください」
「じゃあ行きますか」
 たぶん実際のナンパとはほど遠いであろう、誘い文句で僕は彼女をスーパーへと誘う。
 僕らは着の身着のままの格好でアパートを出る。
 とは言っても僕は黒いタンクトップに紺色のジャージのズボン。彼女は水色のTシャツにデニム生地のショートパンツという格好なので、外に出歩くのに特別おかしな格好をしているわけではなかった。
 そして今日の魔法少女は長い髪をヘアゴムで一つにまとめていた。
 男って本当に馬鹿な生き物なんだなって思う。だって普段と違う髪型を見せられるだけで、胸が痛くなってしまうのだから。
 僕らは周りの人にどうおもわれているんだろうな、なんてことを考える。
 もしかしたら、兄弟に見えるかもしれないし、もしかしたら友達同士に見えるかもしれない。
 けど、もしかしたら夫婦に見えているんじゃないか、そんな希望を持って僕は歩く。
「ん」
 彼女が魔法の手を差し出してくる。
「ん」
 僕は魔法の手をそっと握る。
 その手は魔法のせいかとてもすべすべしていてとても柔らかかった。
「ごめんなさい。僕の手はちょっと汗をかいてるからべとべとしてるかも」
「うん、君の手は妖怪『べとべとん』だね」
「何それ」
「べとべとしてるけど、手をつなぐにはちょうどいいという妖怪『べとべとん』」
 彼女は僕の手をぎゅっと握り替えしてくる。
 指と指を絡めてやると魔法少女は少し頬を赤らめた気がした。
 もしかしたら千里は魔法少女なんかじゃなくて雪女なんじゃないかって思う時がある。
 残暑真っ盛りで太陽がじりじりと照らしているというのにものすごく涼しい顔をしているのだ。
 僕が手にこんなに汗をかいているというのに彼女の手はさらさらで、それでいてこんなにさっぱりしている。
 彼女は雪国の生まれだから雪女というのはあながち間違いじゃないかもしれない。
雪女は年をとらない。
 彼女の容姿が幼く見えるのもそのせいかな、なんて思う。
 確か、雪女は正体を隠して主人公と結婚して十人の子どもをもうけて、それで自分が雪女だってことをばらすんだよな……。
 結婚。
 どきっとした。
 確かに僕らは二〇歳を超えて親の承諾なしに結婚できる。
 僕は勝手に頭の中で家庭を持つことを想像することがある。
 一戸建てのマイホームにまだ小さな自分の子ども、その横には自分の愛する妻。
 その妻の顔だけが想像できずにいた。
 もしかしたら、そこには今手を繋いでいるこの魔法少女が入るのだろうか。
 そうであればいいなと思う。
 ずっといたいなと思う。
 だけど僕はそんなことを現実的に考えられるほど大人じゃないみたいだ。
「どうしたん? 黙っちゃって。夢でも見てた?」
 魔法少女は首をかしげて僕の顔をのぞき込む。
 今に抱きしめてやろうか。そんなことを思ったがやめておく。
「いや、朝ご飯何にしようか考えてた」
「食いしん坊だね。君は。すごくいいことだよ。そういうとこ私は好きだな」
 今度は僕の顔が赤くなる番だった。
 これは別に僕が赤面症なわけでも、この短時間で日焼けをしてしまったわけでもない。 

 開店直後ということもあって、近所のスーパーは人がまばらだった。
 今は人がまばらだが、午後のタイムサービス時は人が芋洗い状態になる。
 このスーパーはとにかく安い。
 それだけ品質の保証はないのだが、僕のようなバイトもしないで奨学金とほんのちょっとの仕送りでなんとか生きている貧乏学生には実にありがたい。
 といっても人混みの苦手な僕はタイムサービス時は滅多に近づかないのだが、タイムサービス以外でもここでは食材が安く手に入る。
 僕は買い物カゴを持ってパンのコーナーを漁っていると、魔法少女がやってきて横からカゴにビールをこれでもかってほどに入れていく。
「ねえ、千里さん。今僕らは朝ご飯を買いに来てるんだよ?」
「主食だよ。主食」
 この魔法少女はお酒が主食らしい。
 お酒は飲み物です。ほんとうにありがとうございました。
 それにしてもこの魔法少女はよくお酒を飲む。
 たぶんお酒を飲むことでマジックポイントを回復させているんだと思う。
 この魔法少女は特にビールが好きらしく、水のかわりぐらいにビールを飲む。
 その割にはあまり酔っ払うことがない。
 顔に出ることもないのでまるでお酒を飲んでいないかのようである。
 もしかしたら魔法でビールのアルコール分をなくしているのかもしれない。
 ただそんなビールははたして美味しいのか、という疑問は残るが――。
 僕はいつものように薄切りの食パンとベーコンと卵、そしてインスタントのカップスープを買った。
「何を買ったのかな、少年よ」
「何っていつも通りだよ」
「もうちょっと冒険してみたらどう? たまには塩辛やキムチや枝豆なんかを買ってみるってはどうだい」
 朝からどれだけ本気で飲むっていうんだ。この魔法少女は――。
 
「て」
 スーパーからの帰り道、魔法少女が何かを小さくつぶやく。
「何?」
「……て」
 そう言うなり、僕の手に指を絡ませてくる。
 ああ。「手」って言ったのか。
 僕は彼女の手を握り変えす。
 魔法少女、もとい雪女さんの手はやっぱり冷たかった。
 確かにキンキンに冷えたビールの缶を持っていたから彼女の手が冷たいのもわかる気がする。
 だけど、やっぱり彼女の手は冷たい。
 手が冷たい人は心が温かいなんて話を聞く。
 この話を初めて聞いたのは確か小学生の時だったかと思うが、そのときは「じゃあ、寒いところに住んでる人はみんな心が温かいんだね」と言って家族に笑われた。
 二〇歳になった今では、必ずしもこの法則があてはまるとは思っていない。
 だけど、僕が手を握っているこの魔法少女はきっと心が温かいんだと思う。
 そう思えるだけでなんだか幸せな気がした。

 アパートに帰った僕は、フライパンを温めてベーコンを焼く。
 油はいらない。熱したベーコンから十分すぎるほどの油が出てくるからだ。
 カリカリになったところでベーコンを取り出す。
 その油で今度は卵を焼く。
 僕はスクランブルエッグ、魔法少女は半熟の目玉焼きを食べる。
「君の目玉焼きは世界を救えるくらい美味しい」
 彼女はそう言っていつも僕の作った目玉焼きを食べる。
 僕も一緒に目玉焼きを食べられれば、手間も少なくて僕の調理も楽になるのだが、僕はどうしても半熟の黄身が苦手だった。
 自分が苦手なものを人のために上手に作っている。なんだか自分でもすごく変な感じだ。
 味見もせずに僕は目玉焼きを皿に盛り、カリカリベーコンを添える。
 そして自分用にやや堅めのスクランブルエッグを作る。
 すると横からひょいっと手が伸びてきて、ベーコンを持って行かれてしまった。
 犯人は言うまでもなく銀縁眼鏡の魔法少女で、右手には既にビールが握られていた。
 ビールは魔法少女愛用の魚へんの湯飲みに注がれていた。
 この湯飲みはティーカップにもなるし、ビールのジョッキにもなるらしい。
 これだけ便利に使われれば、これをくれた寿司屋の大将もさぞお喜びだろう。
 いや、喜びはしないか。
 本来、お茶が入るべきところに紅茶だのコーヒーだのビールだのが注がれているのだから。
 オーブントースターからはパンの焼けるいいにおいが漂ってきていた。

 魔法少女はトーストの上に目玉焼きを乗っける。
 彼女曰く、子どもの時に見たアニメに影響されているらしい。
 空から女の子が降ってきたのを親方に報告したり、四十秒で支度をしなければいけなかったり、眼鏡の男が追っかけてきて目が痛い! みたいなアレだ。
 ただそのアニメのヒロインと明らかに違うのは、右手のビールを離さないということだろう。たぶんあのヒロインがビール片手に持ってほろ酔い状態で空から降ってきたら主人公は彼女を受け止めもしないだろうし、天空の城まで彼女を助けに行かないだろう。
「ん……何? じっと見てるの? あ、気づかなくてごめん。飲む?」
 いや別にビールが欲しくてあなたを見ていたわけではないのですが……。
「そう、じゃあ全部飲んじゃうよ? いいの?」
「いいですよ。別に」
「あら、私を酔わせてどうするつもり?」
 いや、別にどうするつもりはありません。
 僕のすることと言えば、この後ほろ酔いで眠るあなたにタオルケットをかけてあげることぐらいです。

 僕の予想通りに彼女は横になるなり、静かに寝息をたて始めた。
 この寝顔を見ていると彼女は魔法少女じゃなくて天使なんじゃないか、って思う。
 僕は予定通りに彼女にタオルケットをかけてやる。
 千里はきっと魔法少女の中で一番休みを満喫しているんだろう。

「ねえ、結婚する?」

 僕はぼそっとつぶやく。
 もちろん彼女には聞こえないことはわかった上でのことだ。
 答えなんかいらなかった。
 というより答えられると少し困ってしまうかもしれない。
 当然答えは帰ってこなくてその代わりに、静かで優しい寝息が聞こえてくるだけだった。
 それにつられて僕もいつのまにか眠気が襲ってきてしまっていた。



「ねえ、起きて。ねえねえ」
 魔法少女の声で起きた。
 時計はもう午後の二時を回っていた。
 眠ったのがたしか十一時くらいだからもうなんだかんだで三時間ほど眠っていたことになる。
「ねえねえねえねえねえねえねえねえねえねえ!」
 何回「ねえ」を言えば気が済むんだろうかこの魔法少女は――。
「わかったわかった起きましたー。おはようございます」
「じゃあ、ここは?」
 そういって彼女は自分の下の方を指さす。
「ひじ……だけど」
「せいかいっ!」
 いつの間にか『十回クイズ』が始まっていたらしい。
 だけど普通「ねえ」と「ひじ」は間違えないから。そこは「ピザ」と「ヒジ」だから。
 ……とツッコミどころはそこだけじゃない。
 彼女が僕を起こした、という点についてだ。
 この魔法少女こと高峰千里の得意技は「昼寝」なのである。
 あの国民的青ダヌキアニメの主人公の黄色いシャツに眼鏡の少年も特技が「昼寝」らしいが、それに匹敵するぐらいの「昼寝」のテクニックを彼女は持っている……と僕は勝手に思っている。
 とにかく、人よりも長く、そして人よりも気持ちよさそうに昼寝をすることに関しては天才的であると言える。
 そんな彼女が僕を起こしているのである。
 雪でも降るかと思った。嵐が来るかと思った。
 いや、空から槍が降ってくるかもしれないと思った、
 そのくらい珍しいことなのだ。
「どうしたのさ。僕よりも早く起きるなんて」
 すると千里はぴょんっと僕の上に飛び乗る。

「結婚するよ!」

 一瞬僕の脳みそがフリーズしたかと思った。
 何も考えられなくなって、ただただ僕に飛び乗っている魔法少女を見るしかなかったのだ。
「あのね。私は夢の中で君に言われたの。『ねえ、結婚する?』って」
「ほえ?」
「うん、だから君に答えなきゃって。結婚するよ!」
 ……。なんだかよくわからないので僕はまた横になることにした。
「なーんで寝るかなー。この三年寝太郎!」
 この二十一世紀の世の中に人に向かって「三年寝太郎」って言う人がいるのか……と僕は若干感動さえ覚えた。
「君が聞いたんでしょ。夢の中でー」
「だからそれは僕じゃないんだって夢の中の話なんだろ」
「でも君は君だもん」
 ねえねえねえねえ、と魔法少女は僕の体を揺する。
 どうやら彼女が寝息を立ている時に話しかけたことを夢の中の出来事と勘違いしているようである。まるで「夢だけど夢じゃなかった」状態である。
 僕は実際に彼女に話しかけていたことは黙っていた。
 なんだか無償に恥ずかしかったから。
 ただそれだけのこと。

「今から結婚生活をしてみようと思います!」
 魔法少女は胸を張って宣言する。
 彼女は僕を無理矢理起こすやいなや、「ナイスアイデア」と言わんばかりに僕に一つのことを提案してきた。
 それは「夫婦ごっこ」をすることだった。つまり疑似結婚生活をこれからするわけなのである。
 ああ、なんて平和なんだろう。
 そしてなんて大学生って暇な人種なんだろう。
「というわけで、さっそく始めようか」
 この魔法少女はヤケにノリノリである。
「始めるたって……なあ」
 正直な話、何をしていいか全くわからない。
「まずは結婚指輪をするところから始めるんだよ」
 この魔法少女は基本的に変なことを言うらしい。いや、わかってはいたけど。
「いきなり何を言い出すの? 結婚指輪を買うお金なんてあるわけないじゃない。自慢じゃないけど僕は奨学金というすばらしい借金制度のおかげで今生きているんだぜ。結婚指輪を買うお金なんてないよ」
 結婚指輪どころかペアリングを買うお金もないんだろうな。
 そう思うと無性に悲しくなってくる。
 やっぱりバイトの一つぐらいやったほうがいいのかもしれない。
「わかってるよー。そんなことは。君がどうしようもない貧乏学生で、それでいてどうしようもないほどバイト不適合人間であることはよくわかってる」
 あれ、おかしいな。目から汗が……。
 しかも全くもってその通りなので言い返すこともできない。
「これをつかうのです」
 彼女は髪をまとめていたヘアバンドを外す。するとさするりと髪がほどけて、肩にかかる。どうしよう。僕、この魔法少女がすごく好きだ。
「はい」
 そのヘアバンドを僕に渡してくる。
「はめてください」
 すると彼女は左手の薬指を僕の方に向けてきた。
 綺麗な指だな、といつも思う。
 ささくれひとつなく、爪もちゃんと整えられてくる。
 魔法少女はこんなにも身だしなみがしっかりしているものなのだろうか。
 もしくは、魔法少女はささくれもできないし、爪も伸びないのかもしれない。
 僕はヘアゴムを小さくまとめて小さな輪にすると彼女の薬指にはめてやる。
 たかがこんなことなのに無性に緊張した。
 指が震えた。そんな僕の様子を見て彼女は優しい笑みを浮かべる。
 やっぱり僕は何をやっても絵にならないなって思う。
 これから先もずっと――。
「むふー」
 魔法少女は満足そうだった。
 一方僕はというと自分への劣等感に溺れていた。
「というわけで、ふつつかものですが、よろしくお願いします」
 彼女は床に手を合わせてぺこっとお辞儀してみせる。普段そんなことをされることがない 僕は(というより普段からこんなお辞儀をされている大学生なんていないと思うが)またまた緊張してしまう。
 こんな「夫婦ごっこ」で緊張している僕は本当に大丈夫なのだろうか。
 これから大学を卒業して、ちゃんと暮らしていけるのか、そんなどうでもいいことばっかりが頭の中を頭をぐるぐる回っている。
 とりあえず僕もぺっこりとお辞儀。
 お互い頭を上げて二人で笑った。
 笑っていたらさっきまで考えていた劣等感だとか不安なんかがふっとんでしまった。
 きっとどうにかなるんじゃないかな。
 この魔法少女がいれば――。

 いざ、「夫婦ごっこ」を初めてみたはいいけど、結局やることはいつもの僕らと同じだった。
 返却期限が近いDVDの映画を二人でみたり、彼女が文庫本を読み耽っているのを僕が一方的に眺めていたり、僕が食器を洗っているのを彼女がオリジナルの変な踊りで邪魔をしてきたり、いたって日常の僕らだった。
「結局、結婚ってなんなんだろうね」
 魔法少女も僕と同じ疑問を持ったようだ。
「これじゃあ、いつもと一緒だもんね」
「結婚ってそういうものなんじゃないの。よくわからないけど」
「そうなのかもね」
 また二人で笑った。
 きっと結婚って好きな人と楽しく過ごすことなんだろう。
 まだまだ僕らが子どもだからよくわからないけど、今はこれでいいと思う。
「あ、そうだ。私帰らないといけないんだった。宅配便が届くんだった」
「家から?」
「そう家から。めんどくさいなー。きっとリンゴだよ。鬼みたいに大量に送ってくるんだよ」
 彼女の地元ではリンゴ農家が多いらしく、秋になると家にあふれるほどリンゴがあるのだという。
「届いたらここに持ってくるからね。全部」
 おっと、それは押しつけというものなんじゃないかな?
「私は魔法少女だから『押しつけ』って言葉の意味がわからない」
 便利だな。魔法少女。僕もなれるもんだったらなりたかったね。
「じゃあ、ここで『結婚生活体験版』はおしまいですね」
 そんなゲーム雑誌のおまけみたいなタイトルがついてたのね。
「そうなるかな」
「またやろうね」
 そう言うと彼女は左指の薬指の結婚指輪……もとい、ヘアゴムを外して、再び髪を一つにまとめた。
「じゃあね」
「うん、帰り気をつけてね」
「ありがと……あ、一つ忘れてた」
「え、な――」
 僕がそう言いかけた時だった。

 彼女の小さな唇が僕の唇をふさいだ。

 僕の頭は緊張を通り越してショート寸前になる。
 もはや自分が何をしているのかわからない。
 ただ甘かった。
 そして柔らかかった。
「『行ってきます、のちゅー』だよ。そんじゃあね」
 そう言って魔法少女は僕の部屋を出て行く。
 ホウキで空を飛ぶわけでもなく、ワープするわけでもなく、徒歩で。
 「夫婦ごっこ」がおしまいなんて嘘じゃないか。どうやら「夫婦ごっこ」は彼女の中では続行中らしかった。
 今度彼女が僕の部屋に来る時は『おかえりのちゅー』が待ってるのだろうか。
 口の中の甘さを感じながら僕は一人そんなことを思っていた。
 


第二章← 第三章 

「小説」に戻る
トップ画面に戻る